秘密

高く澄み渡っていた青空も、淡い茜色のグラデーションへとかわりつつある。
水平線に近づき始めた陽が波間に作る光の道を横目に、望美は砂浜を歩いていた。
太陽が海に接する前には帰らなければ、皆が心配する。
わかっているのに、もう少しひとりでいたいと思ってしまう。 
ひとりで。 
そうだろうか。
たったひとりと顔を合わせたくない、というのが実際の所のような気もする。 
逢いたくない。 
というのは、少し違う。 
多分どちらかというと逢いたい。……ような気もする。 
「もぉ……」
立ち止まった望美は、自分の中のぐるぐると巡る思考を持てあまして、その場にしゃがみ込んだ。
ほんの少し波が届かない場所。
寄せて返す波を見るともなしに見る。
 
「オレの女になりなよ」
 
ヒノエにそう言われたのは、ほんの数日前のことだ。
望美は思い出しながら潮風に乱れた髪をかきあげかけて、触れた耳に手を止める。
そのまま、今はなにもつけられていない耳たぶにそっと触れた。
 
 
紀井湊への途中で、ヒノエに耳飾りを贈られた。
路銀の足しにするつもりで持ってきたのだと言っていたはずのそれは、白い真珠と薄紅色の真珠を組み合わせ、小さな花を型どったとても可愛いもので、望美は一目でそれを気に入った。
それでも貰うことに申し訳なさの先立つ彼女の返答を待つことなく、ヒノエは望美に近づくと耳飾りをつけてくれた。
息がかかる距離。
まわされた腕の温度。
触れた指先。
今まで幾度かあった、戯れるような触れ合いと違って感じたのは、いつもよりヒノエの眼差しが熱っぽかったからだろうか。
望美はそれまで感じたこともないほどに緊張し、ヒノエの動きすべてを意識しながら、自分の胸の鼓動が耳に響くのを痛いほどに感じていた。
 
耳に触れた金属の冷たい感触。
やがて離れていく気配。
最後にさらりと長い髪に触れたのは、わざとなのか偶然なのか。
「この戦いが終わったら一緒に熊野に来いよ。この世のどんな姫君より大切にするぜ?」
離れたヒノエにホッとしたような、少し寂しいようなよくわからない感情に戸惑うままに聞いた言葉の意味が咄嗟にわからず、望美は問うようにヒノエをじっと見つめた。
「オレは、お前が好きだよ。だから帰したくない」
 
一緒に熊野に。
好きだ。
帰したくない。
 
拾い上げた単語をもう一度反芻して、望美は初めて言われたことを理解した。
これまでも様々な口説き文句を、彼の口から聞いてはいた。
それらは望美をドキドキさせてはいたけれど、軽い調子が本気だとは思えず、いつも受け流していた。
しかし、この日のヒノエは笑顔こそ見慣れたものだったけれど、真剣な眼差しが冗談などではないと告げていた。
「ほ、他の人にもそう言っているんじゃないの?」
それでもどこか信じられなくて、混乱した頭のままに選び出した言葉。
朔や望美への言動からして、ヒノエは女の子に対して物慣れていると常々思っていた。
どんなことを言えば嬉しいか、何を贈れば喜ぶのかわかっていて、それを照れもなくやってしまう。
だから彼はそういう経験も豊富で、どちらかといえば一人に本気になるよりも、たくさんの人と浅くつきあうタイプなのだろうと思っていた。
実際、京にいても、旅の途中も、熊野に来てからも、夕餉の後にはふらりといなくなり、ずいぶん夜が更けてから帰ってくることも多かったから、あちこちに逢いに行くような相手がいるのかもしれないと考えてもいた。
「あいにくとこんなことを言うのはお前にだけだ。一緒に飲むと楽しい子とか、くつろがせてくれる子はいろいろいるけどさ」
ほらね。やっぱり他にもいっぱいいるんじゃない。
そんな言葉を挟む隙も与えずに、ヒノエは続けた。
「いつも一緒にいたいと思う相手は、お前だけだぜ?」
 
  
思い出しているうちに段々恥ずかしさがこみ上げてきて、気持ちを宥めるように数回深呼吸してみる。
吹き抜けていく潮風が火照った頬を撫でていくの感じるうちに、少しずつ気持ちが落ち着いてくる。
太陽はじわじわと水平線に近づいていた。
明るい橙色だった空が、徐々に紫がかり、暗さが滲み始めている。
帰らなくては、と思う。
剣を持ってきてはいるけれど、陽が沈んでしまってからでは帰り道は真っ暗だ。
わかっているのに、もう少しだけひとりでいたいとも思う。
あと少し、と言い聞かせて、望美は近くに落ちていた枝を拾い砂をなぞる。
 
ヒノエ
 
あ、違う。たんぞうだ。
そう思い直して、もう一度枝を動かす。
 
たんぞう
 
この時代らしい古めかしい名前で、思わず笑みが零れる。
もうすっかり『ヒノエくん』で呼び慣れてしまったから、本当の名前を知ってからもそう呼び続けている。
 
ふじわらたんぞう
 
今度はひらがなでフルネームを書いてみる。
『ふじわら』はきっと『藤原』だろう。
それでは、『たんぞう』はどんな字で書くのだろう。
 
単 短 胆 担
 
思いつく字をいくつか書いてみたものの、名前としてはしっくりこない気がする。
『ぞう』は名前でよく使われている『蔵』だろうか。
 
たん蔵
 
ふと手を止めた望美は、彼のことばかり考えている自分を自覚して、盛大なため息を落とした。
困った、と思う。
告白された時は驚くばかりで、どうにか返事を保留にした。
今はそこまで考えられないと思ったから、ヒノエには正直にそのままを伝えた。
考えておく、と。
確かにそう約束はしたけれど、あれから本当にヒノエのことばかり考えている。
今はもっと他に考えなくてはいけないことがあるはずなのに、つい彼の過去の言動を思い返してみたり、気付けば目で追っている。
とりようによってはプロポーズにも聞こえる告白だった、とも思う。
それは飛躍しすぎだろうと否定してみる。
でも。
 
藤原望

『美』と書きかけて、さすがに恥ずかしくて、枝でヒノエの名前諸共ぐしゃぐしゃとかきまぜ消し去った。
その時。
「望美」
「うぇっや、はいっ!?」
動揺したままにひっくり返った声をあげて立ち上がる。
振り返るとすぐ近くにヒノエが「そんなに驚かせたかい?」と笑っていた。
「ご、ごめん。ボーッとしてて。うん、大丈夫。え、と、迎えに来てくれたの?」
「まあね。オレの姫君は、目を離すとすぐにいなくなっちまうし?」
そう言いながら近寄ってきたヒノエは、背後からそっと抱きしめるように腕をまわすと、枝を持つ望美の手に自らの手を重ねた。
「ヒ、ヒノエくん?」
動揺した声音をよそに、ヒノエは足下に文字を二文字書いた。
 
湛増
 
「オレの名前」
言いながら、その上に名字を付け足す。
 
藤原湛増
 
藤原は思った通りの字。
たんぞうは思いも寄らなかった字だ。
「へえ、こんな字を書……ってずっと見てたの!?」
「声はかけたと思うけど。波の音で聞こえなかったんじゃない?」
しれっと言って背後から望美を抱きしめたまま、再びその手ごと枝で砂浜をたどる。
「お前の世界では、花嫁は姓が変わるんだってね」
将臣か譲に聞いたのだろう。
笑み含んだ声で言ったヒノエは、『藤原湛増』の隣に再び文字を書き出していく。
この世界では結婚しても名字は変わらないの?
頭の片隅でそんなことを考えつつ、書かれた文字に望美は赤面した。

藤原望美

「イイと思わない?」
肩にヒノエの顎が乗せられて、耳元に囁くように言われる。
「似合いだと思うけどな」
自分の鼓動に耐えきれなくなってその腕から逃れようともがくと、あっけなくその囲いは解かれたけれど、離れることは許さないというように思いの外強い力で腕をとられた。
「離して」と言いかけて、冷たい感触に視線を落とすと、足を濡らした波に砂の上の名前はあっけなく攫われていく。
「何度でも言うよ、望美。オレはお前が好きだ」
「──っ、……痛いよ、腕」
まっすぐな言葉を躱す台詞は見つからなくて、望美はようやくそれだけを口にする。
ヒノエはふと我にかえったように、その指先から力を抜くと、そのまま自身の髪をかきあげた。
「悪い……はっ、オレもまだまだってことか」
何が、とは訊けなかった。
ただからりと笑い飛ばすような様子とは裏腹に、その目に浮かぶ色はどこか自嘲めいていて、望美は無意識に「ヒノエくん」と呟くように呼んでいた。
「ん?」
「え、あ、ううん、なんでもな……っていうか、ヒノエくんじゃないよね。湛増くんって呼んだ方がいいのかな。でもなんか今までヒノエくんで慣れちゃったから、今更変えるのもちょっとなかなか難しいかも。あ、でもヒノエくんが呼ばれたい方で呼ぶから、私、だから」
慌てふためいて、誤魔化すように言葉を紡いでも後が続かない。
「可愛い姫君の声で呼ばれるならどちらでも、と言いたい所だけどね。ヒノエでいいよ。湛増の名で余計な詮索をされるのも業腹だからさ」
熊野別当の顔は知られていなくても、その名を知る者は多い。
同じ名前の人間は他にもいるが、源氏と同行する以上、危険要素は少ない方がいい。
ヒノエのそんな思惑を知ってか知らずか「じゃあこれからもヒノエくんって呼ぶよ」と望美は微笑んだ。
「ねぇ望美。自分の名前を相手に告げるってさ、昔は相手に心を許すっていうのと同じ意味だったんだぜ?」
濃紫の髪を手に取ると、ヒノエはそれに口づけた。
照れて口ごもるだろうか。
慌てて離れていってしまうだろうか。
そんな予想をしつつ窺うように望美を見ると、目を見開いて、ただ驚きを浮かべた彼女がいた。
「望美?」
「あ、うん。知ってるよ」
取り繕うように笑ってみせた望美は、ヒノエに背を向けてゆっくりと砂浜を歩き出す。
「こもよ みこもち このおかになつますこ ……でしょ? 聞いたことがあるよ」
「へぇ、さすが姫君。よく知ってるね」
追いかけるように歩き出して、望美の顔を覗き込むように話しかける。
泣いているかと思った。
根拠なんかない。
ただ先ほどの彼女の様子に、何か核心に触れた、そんな気がした。
少なくとも、ヒノエが言ったのは己の名を相手に告げる意味だけで、歌の話をしたわけではない。なのに、望美は当然のように和歌を持ち出した。
それが意味するのは、なんなのか。
「誰かにお前の名を聞かれた? どこかの野郎がこの歌を詠んで聞かせたかい?」
「それは……学校で習ったのかもね。うん、きっとそうかな。私が知ってる和歌なんて、学校で習ったものか、ヒノエくんが教えてくれたものくらいだよ。そんなことより、ほらそろそろ帰ろうよ。また九郎さんに叱られちゃう」
一気にそう言ってこの話題を終わらせるように、望美は再び歩き出した。
あたりは薄紫に仄暗くなってきていた。
もうすぐ陽は波間に消えて、やがて闇が広がる。
ヒノエは何かが闇に消えていくのを繋ぎ止めるように、さりげなく彼女の冷えた指先に自身のそれを絡ませるた。
「籠もよ、み籠持ち……この丘に菜摘ます児」
歌うように呟けば、黙ったまま歩き続ける望美の、繋いだ手にほんの少し力がこもる。
「家聞かな、告らさね、我にこそは告らめ、家をも名をも。……ねぇ、姫君。お前の本当を教えてよ」
「……本当って? 知ってるじゃない。名前」
きっと望美は、ヒノエがそんなことを聞いているんじゃないと知っている。
無理矢理にでも暴いてしまいたい。
けれど、望美の秘密は彼女にとって痛みのような、傷のような気がする。
そうでなければ、こんなに悲しげな瞳で頑なな態度をとりはしないだろう。
「……そうだね」
「そうだよ」
「そっか」
どうにかして聞き出すべきなのか迷いながら、望美の頑なさをほぐすように、ヒノエは殊更に明るい口調で話題を変えた。
「望美。熊野はいい所だと思う?」
「思うよ。海は綺麗だし、食べ物はおいしいし」
「そして何よりこのオレがいるからね。一生住むのも悪くないんじゃない?」
「もぉ、それは別問題!」
ようやくいつもの調子となった望美と肩を並べながら、ヒノエはさりげなく話題を振り続ける。
「ふふ、お前の世界の熊野は?」
「行ったことないの。でも京も鎌倉も同じ所はいっぱいあったから、きっと熊野も同じじゃないかな。那智の滝とか、確か有名だったし」
「へぇ、面白そうだね」
「うん、京のお寺も同じところがいっぱいあってね。鎌倉も、江ノ島とか見慣れた場所の雰囲気はそのままなのに、着物の人が歩いてるから不思議な感じが、して……」
望美は少し混乱していた。
今ここに存在している望美が知っていること。知らないはずのこと。
自分にとってはすべて過去だけれど、あの時空での出来事は、今ここに存在しないはずの記憶だ。
この時空の望美が、鎌倉を知るはずはない。
「どうかした?」
間近に迫る悪戯めいた眼差しに、心臓が跳ねる。
ヒノエは何も気に留めていないようで、望美は安堵しながら、なんでもないよ、と微笑んだ。
「あのね、ヒノエくん」
知らないはずのこの世界の鎌倉を知っている自分。
目の前にいるのは、一度は失ったはずの人。
見殺しにした、人。
それを知っても、彼は好きだと言ってくれるだろうか。
ヒノエの告白に、望美は考えておく、と答えたけれど。
告白なんてされるのは初めてで、浮かれてばかりいたけれど。
今の自分はそんなことを考える資格すらない。
今考えなければいけないのは、皆と生き残る未来のことだけだ。
あの時空とは違う流れを、確かに辿り始めている。
ヒノエが正体を明かし、同行し、彼の策で平家の船を奪うことも出来た。
それでも、この流れの先にある未来が、思い出したくもない過去に繋がらないとはまだ言い切れない。
望美は戦の行く末の見えない現状では、ただ不安ばかりを抱えていた。
「いつか全部話すから……。その時、その、ヒノエくんの気持ちが変わらないなら、私ちゃんと考えるから」
ヒノエは何も言わず、盛大なため息をついた。
呆れているに違いない。
今は何も話さないくせに、先延ばししようとしている。
軽蔑されるのを。
「お前がどんな秘密を抱えているか知らないけど、オレの気持ちがそんなことで変わる程度だと思われてるわけだ?」
ヒノエは繋いだ指先を引き寄せて、望美の手に口づけた。
「みくびられちゃ困るな、姫君。オレはお前の秘密も一緒に背負うくらいの覚悟は、持ち合わせているつもりだけど?」
知らないくせに。
何も知らないくせに、覚悟なんて言わないで欲しい。
思いはそのまま口唇から溢れ出た。
「知らないくせに!」
ヒノエの手を強く振りほどく。
「私のせいで皆──っ」
言いかけて、ハッとして口唇を噛む。
強く拳を握りしめて、溢れ出たものを押し戻す。
今ここには存在しないはずの記憶。
もう二度と招いてはいけない未来。
口にするのも、思い出すのも苦しい──自分だけの過去。
ヒノエは望美の正面に立つと、彼女の顎に手をかけ上向かすようにして親指で口唇をなぞった。
「切れてるよ、口唇」
逃れるように視線を逸らした望美を、ヒノエは強く抱きしめた。
もがいてもまわされた腕はびくともしない。
「離してっ」
「お前のせいじゃないよ」
そのひと言に、望美は動きをぴたりと止めた。
ただじっとして、息を呑む。
「お前のせいじゃない」
目の前にいるのは、何も知らない相手だ。
そうわかっているのに、赦しの言葉はじわりと心に染みてくる。
「望美が悪いんじゃないよ」
暖かく、包み込むような言葉。
だから余計に、辛くなった。
自分のせい。それはわかっている。
もしも自分が、ちゃんと白龍の神子らしく出来ていたなら、きっとあんな風に皆は死なずに済んだはずだ。
今まで押さえ込んでいた涙が、どうしようもなくあふれ出す。
望美は緩く頭を振って、どこまでも優しい言葉を否定した。
「わ、私の、せい……、私が、ちゃ、ちゃんとした神子、神子じゃ、ない、から」
嗚咽に紛れて上手く言葉を紡げない。
震える背中を宥めるように撫でられて、望美はそれ以上何かを言うのを諦めて、ただぬくもりに縋り付くようにして泣いた。

こんなに泣いたのは、いつ以来だろう?

ひとしきりそうしてヒノエの胸に顔を埋めていた望美が落ち着くのを見計らったように、ポンと肩を叩かれて、そっとぬくもりは離れた。
「さて、姫君。そろそろ帰ろうぜ?」
望美は涙でぐちゃぐちゃになっているであろう顔を隠すように、ヒノエから顔を背けると己の袖で目元をぐいと拭った。
ヒノエは望美の手を取ると、黙ってゆっくり歩き出す。
望美は、まるで叱られた子供のようにほんの少し俯いて、手を引かれるままに砂を踏みしめる。
気付けば周囲はすっかり暗くなっていた。
こんな風に泣いてしまうなんて恥ずかしい、とか。
暗くなるまで帰らないなんて皆心配しているかな、とか。
あれこれ思考が過ぎる。
そして。
彼は、何も聞かないのだろうか。
すぐ前の手を引いて歩く背中を、顔をあげて見つめる。
聞かれたとしても今はまだ、やはり言えない気がした。
そうは言っても、こんな風に大泣きした望美に、何も話さずヒノエが納得するとも思えなかった。
視線に気付いたのだろうか。
ヒノエは手を繋いだまま、立ち止まって振り返った。
目があっても、うまく言葉が出てこない。
「聞かねぇよ。言いたくないならさ」
「……」
「ちゃんとした龍神の神子がどういうものか、オレは知らないけどね。望美が人並み以上に頑張ってるってのは、皆わかってる。だから何もお前ひとりが、全部抱えこまなくてもいいんだぜ? 姫君。辛くなったら、誰かにそう言えばいいんだ」
もっとも、その相手はオレにして欲しいけど。
そう付け足して笑うと、ヒノエは望美の手を励ますようにぎゅっと握りなおして、再び歩き出した。
望美は黙ったままだ。
ヒノエは、それでもいい、と思った。
どうしたって、きっと今は望美は言わないだろう。
ならばこれ以上聞くのは酷な気がした。
ただ、何か重い秘密を抱えている彼女の胸が、さっきの涙で少しでも軽くなっていればいい、とどこか祈るような心地で居た。
「ところでさ、望美」
「なに?」
ヒノエは今日何度目かとも知れない言葉を、まるで初めて口にするように告げた。
「好きだよ」
望美が、例えばどれほどの罪を犯していたとしても、やはりその気持ちは変わらないと確信している。
こんなにも、たった一人に向ける深くて強い感情を自分が持っていることを、望美に出逢うまで知らなかった。
ひと言では足りなくてもどかしくとも、結局の所いくら多くを語っても言葉でなんか伝えきれない。
だから、ただひと言に想いを込める。
「……ありがと」
暗くてよくは見えないけれど、その表情は想像できる。
照れ隠しに少し拗ねたような、でも頬をほんのりと染めた彼女の顔。
思い描きながら、ヒノエはゆっくりと歩を進めた。
宿に着くまでの時間を、少しだけ引き延ばせるように。

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