穏やかに渡る風は、秋らしい爽やかさを孕んでいて心地よい。
グンと伸びをして空を見上げたヒノエは、雲の様子に明日の雨天を悟り、眉を顰めた。
今日は朝から九郎たちと、これからの戦の進め方について話し合っていた。
紀井湊で平家の船を奪うことに成功はしたものの、いまだ瀬戸内の海域は平家の手の内と言っても過言ではない。
少しでも早く兵を整え、福原を攻めたほうがよいと主張する総大将と。
鎌倉の意向を確かめながら、慎重に事を運ぼうという軍奉行の方針と。
両者は平行線のまま具体的な策を決定するには至らず、結局話し合いは昼で一旦打ち切りとなった。
軍議には望美や朔たちは参加しないのが常で、このあたりを散策しているらしい彼女らを探して、ヒノエは川縁まで来ていた。
「こんなところにいたんだ。探しちゃったよ」
望美が後ろ手のまま、足早に歩み寄って来る。
彼女を捜していたはずが、いつのまにか捜されていたらしい。
ヒノエは口元を綻ばせると、「オレも姫君に逢いたかったんだよ。想いが通じたってことかな」と望美に向き直った。
「あのね。これ」
後ろ手に隠していたものを「はい」と差し出される、それは一輪の花。
条件反射のようにその花を受け取ったヒノエは、望美の顔と花とを交互に見た。
「……?」
「好きって、言ってたから」
彼女のひと言で腑に落ちて、思わず苦笑してしまう。
「好き?」と訊かれたから。
「好きだよ。1日中でも見つめていたいほど、ね」そう答えた。
けれどそれは、花でなく。
昨日、河原を歩いていた時のこと。
ふいに望美が足を止めた。
「綺麗だね」
並んで見遣れば、川向こうには淡い紫の野菊が風に吹かれて揺れていた。
「あれで花冠を作ったら可愛いだろうな…」
そんなには咲いてないか、と望美はひとりごちて花々を見ている。
その横顔をしばし見つめたヒノエは、再び花を見遣って囁いた。
「たおやかに風に吹かれても、折れることも、散らされることもない。望美みたいな花だね」
「どこが?」
「ふふ、綺麗な花ってことだよ。もっとも、姫君ほど可憐な花は、どこを探したって咲いちゃいないけどさ」
ヒノエの言葉に頬を赤らめた望美は、冗談ばっかりと呟いて、足下の小石を蹴って水の中に落とした。
── この戦いが終わったら一緒に熊野に来いよ。
そう告げたのは、ほんの数日前のことだ。
── ね、望美。オレの女になりなよ。
頷いてくれると、思っていた。
いつものように目元を紅く染めながら、快諾してくれると思っていた。
その自信が、少なからずあった。
なのに。
彼女の口から出てきた言葉は「わかった、考えておくね」のひと言。
しかも、喜んでいるというよりも、戸惑いと寂しさが透けるような眼差しで、結局それ以上は何も言えなかった。
花々と、川に隔たれた自分。
それはまさに、望美と己の心の距離に思える。
大した距離ではないはずなのに、望美は、他者を──ヒノエを踏み入れさせない為の境界線をひいているような気がする。この川のような。
「ヒノエくん?どうしたの?」
ぼんやりと川向こうの花を見るともなしに見ていると、いつのまにかこちらを見ていたらしい望美から、遠慮がちに声がかかった。
「いや…。綺麗だな、と思ってさ」
「ね、綺麗だよね。ヒノエくんも好き?」
隣に向き直ったヒノエは、想いをこめて囁いた。
「好きだよ。1日中でも見つめていたいほど、ね」
望美はほんの少し困ったように視線を泳がせた後、そうなんだ、とだけ答えて再び花々を見遣った。
あの時の言葉を、彼女は額面通りに受け取ったらしい。
もっとも、それはひどく望美らしいことなのだけれど。
「あれ?もしかして、この花じゃなかった?」
「あぁ。…いや」
花から視線を移せば、望美はほんの少し不安そうに眉を寄せていた。
綺麗なものには心惹かれる。だからといって、特別この花が好きというわけでもない。
けれど、それでも。
望美が自分の為に摘んできてくれたというだけで、手にした花が何倍も美しく見えるから不思議だ。
「この花だよ」
彼女が落胆しないよう、ありがとうと囁いたヒノエは、手の中で清々しい香りを放つ花弁にそっと口づける。
すると望美は、何を思ったのか狼狽えたように視線を外し、目元を赤らめながら「よかった」とくるりと踵を返した。
「今日はみんな朝から軍議で忙しそうだったでしょ?手伝えることもなさそうだったから、話し合いが終わるまでにお菓子でも作ってようかと思って、譲くんたちと材料になりそうな木の実を探しに行ったの」
実際作るのは譲くんなんだけど、と戯けたように笑う姿にすっと目を細める。
「へぇ、譲も一緒だったのか」
朔と望美だけで行動するよりも、譲が同行したほうが安全に違いない。
頭ではわかっていても、彼女が目の届かない場所で他の男といたことが面白くなくて、発した声がわずかばかり低くなる。
そんなヒノエに気付くことなく、望美は頷いて、朝からの行動を話し始めた。
「もっと上流のほうに、……なんて名前だったかな。忘れちゃったけど、赤くてこんな小さな実がいっぱいなっている、このくらいの木があってね。摘んできたんだよ」
楽しいひとときだったのだろう。望美は声を弾ませて、手振り身振りを交えて話し続ける。
「そのまま食べても甘くておいしかったんだけど、1個大ハズレがあってね。すごくすっぱかったの」
「そいつは災難だったね」
「ホント。朔にも譲くんにも、よく確かめないで食べるからだって笑われちゃった」
「そう」
「あ、今、譲くんがお菓子を…」
「望美」
思わず話を遮ってしまい、息を呑む。
「うん?」
「いや、…それで?今、譲が菓子を作ってるって?」
ヒノエは何事もない顔で話の先を促しながら、こそりと溜息を落とした。
焼きがまわったものだ、と思う。
望美の楽しげな姿を見ているのは、嬉しいし楽しい。
だから今だって、こんな風に心をざわつかせる必要などないはずだ。
目の前の花の笑顔を愛で、弾む声音に耳を傾けていればいい。
そう思うのに。
彼女が他の男の名前を口にするだけで、心が波立つのを止められない
「今焼いてるところ。たぶん、もう少しで出来るんじゃないかな」
「へぇ、楽しみだな。それで?この花は、そこに咲いてたのかい?」
「うん」
「逢えない間も、オレのことを想って摘んで来てくれたってわけだ。嬉しいねぇ」
「な、そ、そういんじゃなくて!その…いつもヒノエくんにはいろいろ貰ってばっかりだから…。もっと摘んでこようかと思ったんだけど、あまりたくさん咲いてたわけじゃないから、申し訳ない気がして。ごめんね、一輪で」
「いいや、嬉しいよ。この花が一番綺麗に見える場所に、飾ってもいいかい?」
望美は、手の中でくるくると弄ばれる花を見つめて小首を傾げた。
「いいけど…それってどこ?」
「ここだよ」
ヒノエは長すぎる茎をぷちりと爪先で切ると、その花をそっと濃紫の髪に挿した。
望美は先日耳飾りをつけてやった時のように照れて俯きながら、もっと他に良い場所があると思うんだけど、と呟く。
「ここなら可愛い姫君の顔も花も、どっちも見られてサイコーだろ?」
「……」
「ねぇ、姫君。この花をくれたってことは、期待していいってことかな」
彼女の照れた顔があまりに可愛くて、悪戯心が呼び起こされる。
花を挿していない側の髪をさらりと撫で、顔を寄せて囁いた。
ヒノエの言葉に顔をあげた望美は、頬を赤らめたまま、その瞳に問うような色を浮かべる。
「この花を贈る意味、もちろん姫君は知っているんだろ?」
「意味なんて…あるの?」
「この花は嫁菜って言ってね。求婚する相手に贈るんだよ」
「ヨメナって…えぇぇっ!?」
飛び退くように後ずさりながら声をあげる望美の姿に、堪えきれずに吹き出した。
「なんてね。嘘だよ」
途端に、数歩離れた先で、望美はむぅと不機嫌そうな表情になる。
「オレがそうしたいと思っているのは、本当だけど…ね?」
そう言ってまっすぐ見つめると、望美は一瞬目を瞠り、すぐに視線を逸らせてしまった。
「ヒ、ヒノエくんはいつもそんなのばっかりだね。ね、この花の名前、ヨメナっていうの?」
視線と同じように、話題も逸らせてしまいたい。
そんな彼女の意向を汲み取って、「野紺菊だよ」と答えてやる。
「もぉ、名前から違うんじゃない。ノコンギク…ふーん、ノコンギクか」
望美は、ノコンギク、ノコンギクと繰り返す。けれど、どこか落ち着きのない様子に、花の名前など頭に入っていないのではないかと思えた。
「どっちもよく似ているんだよ。嫁菜も、野紺菊も」
「そうなんだ?……。ど、どう違うの?」
沈黙を怖れるように問う望美へと、歩を進める。
数歩分の距離はすぐに埋まり、こちらを見ないままの彼女が離れようとするのを逃さず腰に手をまわした。
「ちょ、ヒノエくん。またこんな冗談…」
「冗談に…して欲しいのかい?」
冗談なんかであるはずがない。
戦が終わったら熊野に来いと言ったのは、天地神明に誓って本気だ。
望美は、考えておくと答えた。
ふとした時に向けられる眼差しや、ぽつりと語られた言葉や。
幾つも繋ぎ合わせれば、望美の想いは自分に向けられていると思えた。
しかし、それは単なる自惚れで、考えておくという言葉の裏には、もう答えが出ているのだろうか。
「それは…」
長い髪に挿した花の香が、ふわりと鼻先をかすめる。
── 手折るだけじゃ手に入らない…
可憐で、儚げに見えても風雨に負けることのない野の花。
強い風に揺らいでも、けして折れることなく在りつづけ、やがて時節がくれば綿毛となり飛び立つ。
この花のように手折ってしまえば、ひととき留めることが叶っても、すぐに萎れて枯れてしまうだろう。
欲しいのは、そんな刹那の花ではない。
ヒノエはそのぬくもりを抱き寄せるでなく、かといって腕の檻を解くでなく、ただ黙って、彼女の言葉の先を待った。
「ごめんね。冗談って思ってるとか…その、そういんじゃなくて」
「……」
「私、どうしても。どうしてもやりたいことがあって。戦が終わるまでは、いっぺんにはとても考えられないの」
「……」
「それに…。ヒノエくんに…話さなくちゃいけないこともあって」
「オレに?」
望美はようやくそろりと顔を上げると、小さく頷いた。
「でも、まだ今は、話せないの」
「そっか」
彼女が周囲に秘密にしているなにかがあるということは、ヒノエも薄々感じていた。
それがどんなことなのか、それとなく尋ねて訊きだそうとしても、いつも望美は誤魔化して、けして語ろうとはしない。
それでも、『まだ』ということは、『いつか』は話してくれるということだ。
「こないだの返事も…もう少し待って」
「熊野に来るかって答えなら、待つよ。戦が終わるまでね」
その言葉にホッとしたのか、望美はぎこちないながらも笑みを浮かべた。
「でも、これだけは聞かせて貰おうかな。望美はオレが嫌いかい?」
「そんなことっ、…ない、けど」
まっすぐ向けられていた眼差しは、恥ずかしそうに逃げてしまう。
望美と過ごした時間は、まだ1年にも満たない。
それでも。
嫌いな男の腕の中で、こんな風におとなしくしているはずがない性質だということは、わかりすぎるほどにわかっている。
だから。
心のどこかで、自惚れかもしれないと思いながら。
それでも。
自惚れなどではないと確信してしまう。
「オレのことが、好き?」
ヒノエは彼女の細い腰をほんの少し抱き寄せると、コツンと額を合わせた。
吐息の届く、唇が触れそうな距離。
平気な風を装いながら、鼓動はトクトクと早まっている。
そんな己の変化さえも、なんだか楽しく思えてしまう。
「……わかってて、聞いてるでしょ?」
「さぁ?オレの独り善がりかもしれないしね。自信がないな」
殊勝な台詞でとぼけると、望美は不機嫌そうに口唇を尖らせた。
「ね?望美。教えてよ」
「~~~っ」
このまま口唇を奪ってしまいたい衝動を抑えながら、さてどうしようかと思った刹那。
望美の柔らかな口唇が触れ、すぐに離れた。
「──っ!」
思わず彼女の腰にまわしていた手を解くと、ぬくもりはすかさず逃げ出して、再び数歩分の距離をあけた。
「まだナイショ!」
真っ赤になりながら。
けれど、してやったりという表情の彼女。
「マイッタね…」
ヒノエは望美に追いつくと、言わせたかったはずの台詞をそっと囁いた。
この世に、美しい花がどれほど咲き乱れていたとしても。
彼女だけが。
心に咲く、たぐう者なき唯一の花。