くがねばん

あたしは、金。
ちょっと!「きん」って読んだんじゃないでしょうね。そんな婆臭い名前じゃないわよ。
く・が・ね。
黄金色に輝く東北美犬よ。
奥州広しといえども、あたしほどの美犬は、ちょっといないんだから。
こないだも、あたしに夜這いをかけようとしたらしい不届き者が、屋敷の塀をよじ登って来たから、
『ちょっと!下僕っ!下僕はいないの?あたしの貞操の危機だわよ』
と叫んだら、下僕二号が駆けて来て、男を刀の錆にしていたわ。
「知らせてくれて、ありがとうございます」
なんて悠長なことを言ってるから、あたし言ってやったのよ。
『なにがありがとうよ!あんたの見回りがなってないから、あたしが危ない目に遭うんじゃないの!』って。
お詫びのつもりか骨付き肉を持って来たから許してあげたけど、使えない下僕ばかりで、ホント毎日気が抜けないわ。
でもね、今日は予感がするの。
私の殿が帰って来られる、幸せの予感。
 
二人の出逢いは、あたしがまだ幼かった頃。
雨に打たれて震えていたあたしを、温かな手で抱き上げてくださったの。
あの時、心に決めたわ。いつかこの方の妻になろう、って。
その後は、しばらく子供のように戯れ合う日々が続いたの。
それはそれで幸せだったけれど、ある春の発情…いえ、恋の季節に、あたしとうとう我慢ができなくなって、九郎さまを原っぱに押し倒して、情熱的に口づけたのよ。
九郎さまは笑顔で受け止めてくださった。
照れ屋なあの方だから、はっきり口にはしなかったけれど、あの時ふたりの心は固く結ばれたと思うの。
あの日から、あたしは九郎さまの心の妻。
 
九郎さまがこの地にお戻りになったら、今度こそ身も心も、金は結ばれとうございます…。
 
 
 
風が運んでくるあの方の匂いを、あたしが間違えるはずがないわ。
池の傍で蝶々を追いかけるのをやめて、門まで全速力で走ったあたしの目に飛び込んできたのは、愛しいあの方の姿。
『九郎さま!おかえりなさいませ。ああ、お逢いしとうございました。ご無事に戻られて、金は嬉しゅうございます』
「く…がね?金か?また、大きくなったなぁ」
九郎さまは、あたしをじっと見つめると、お陽さまのような笑顔を向けてくれたの。
『あぁ、九郎さま。いくら照れ屋なあなたでも、数年ぶりに逢う妻に「大きくなった」だなんて…でも金はわかっています。九郎さまが本当におっしゃりたいのは、「綺麗になった」でしょう?』
嬉しさのあまり抱きついたあたしを、優しく抱きしめてくださった逞しい腕。
ああ、叫び出したいほど、幸せだわ。
『九郎さま!九郎さま!!九郎さま~!』
「よしよし。いいから、そんなに吠えるな」
「おっきいねぇ。九郎さんにすごく懐いてますね」
幸せの絶頂だったあたしの耳に、初めて聞く女の声が聞こえたの。
よく見れば九郎さまの他に、旧知の仲でいらっしゃる弁慶さまと、あたしの下僕二号。
それはいいとして、他に物静かそうな殿方と、下僕二号よりももっと白くて光沢のある毛並みの殿方と、飯炊き係でもしていそうな厨の匂いがする男と、でかい図体の鬼。
そして、なんと。
女がふたり。
ひとりはなんだか線香臭くて仏門に入っていそうだからいいけれど、たった今、あたしの九郎さまに馴れ馴れしく話しかけた、この女はなんなのよ!
「可愛い~。金っていうの?」
髪の長い女が、あたしに触ろうと手を伸ばしてきたから、思わず九郎さまから飛び退いてしまったわ。
『なんなのよ!馴れ馴れしくあたしの名前呼んでるんじゃないわよ!』
「わぁ、元気がいいねぇ」
「騒がしいぞ、金」
気付けば下僕一号が、あたしのすぐ後ろに来ていたわ。
どうしてこの下僕は、立場もわきまえずに、こうも偉そうなのかしら。そのうえ、いつもいつもいつもいつも、眉間に皺を寄せちゃって、機嫌が悪そうなのよ。お腹に虫でもいるんじゃないかしら。
でも反省はしているようで、夜中にこっそり骨付き肉を持って来ることが多いから、大目に見てあげてるだけなのよ。わかってるのかしら?
「久しぶりだな、泰衡。その…今回はいろいろと…」
「つまらん挨拶はいい。その女が白龍の神子か?」
「ああ」
「春日望美です。初めまして」
はくりゅうのみこ?
かすがのぞみ?
両方名前なのかしら?
はくりゅうのみこ、が名字とか?……長いわ。
「ふん。白龍の神子というからどれほど美しい娘を連れてくるのかと思ったが、存外普通の娘だな」
あら、下僕一号。気が合うわね。
確かに普通のつまらない娘だわ。
なんでそんな女が、あたしの九郎さまと一緒に仲良くここに来るのよ。
「なっ、失礼じゃないですか」
「まぁまぁ、譲くん。ふふ、相変わらず泰衡殿は手厳しいですね。でも、仮にも望美さんは九郎の許嫁ですから、滅多なことを言うと九郎が怒りますよ」
「なっ、弁慶!余計なことを言うな!」
九郎さまは、弁慶さまの言葉になにやら頬を紅くして慌てておいでだけれど…いなごづけ?いなごづけってなにかしら?
……イナゴ漬け?この女が漬け物や佃煮なのかしら?
「ほぉ…ふっ、いい趣味をしているな、九郎」
「ばっ、そうじゃなくてだな」
わかったわ!所帯じみたつまらない女を、よく「ぬかみそ臭い女」とか言うものね。「いなご漬け」とは、つまりそういう田舎女ってことに違いないわ。
うふ、あたし、またひとつ賢くなったわ。
九郎さまが、あんなに恥ずかしそうに慌てておいでなのは、そんなつまらない女を連れているからね。
ああ、九郎さま。金は心の広い女。長旅に女が欲しい夜もあったのでしょうね。確かにその女はつまらないイナゴ漬け。九郎さまのご趣味を疑いたくはなるけれど、よいのです。これからは、毎夜あたしが温めてさしあげますわ。
「まぁ、いい。早く中に入れ」
ええ、下僕一号。お茶でも出して、九郎さまをもてなしてあげて。……その女は水でいいわよ?
「うるさいぞ、金」
だから下僕のクセに呼び捨てにするんじゃないわよ!
 
その夜、庭でソワソワと待っていたあたしの元に、九郎さまは来て下さらなかった。
まさか、あの女のせいかしら?
なんだかわからないけど、あの女はイヤだわ。よくない気がする。
お月さまを見ていたら、だんだん切なくなって、思わず遠吠えしてしまったわ。『九郎さまぁぁぁぁっ』って。
──いいわ。
来てくださらないなら、あの原っぱで口づけた日のように、あたしから行かなくちゃ!
九郎さまの元に忍んでいこうと心に決めて、朝日の差し込む褥に寝そべり、あたしは眠りについたの。
決戦…いいえ、ふたりの婚礼は、今夜だわ!
 
 
 
「たぁっ!やぁ!」
息を弾ませて駆けつけてみれば、九郎さまは庭で稽古をしていたわ。
橙色の尻尾を揺らして稽古する姿を眺めるのは、ずいぶんと久しぶりのこと。
あの頃も、九郎さまはよくこうして刀を振るっていたわ。今よりももう少し、尻尾は短かったけれど。
稽古の後に、あなたに寄り添うひと時が、あたし、大好きだったの。
あの日もいつものように、稽古の後に汗を拭うあなたの隣に、あたしはそっと寄り添っていたわ。
「お前にも兄妹がいたんだろうか…」
ふと遠い目をして、呟くように言うから、一生懸命記憶を辿ったっけ。
『えぇ…確か押し合いへしあいして、母さまの乳を奪い合ったような気が…』
「……。兄上が…兄上が、挙兵したそうだ」
『きょへい…?きょへいってなんですの?』
「俺の大切な肉親だ。力になって差し上げたい」
『………』
「家族、か…。どんなものなのだろうな」
『さぁ?重なって寝るとぬくぬくと温かかったことしか、覚えておりません』
「きっと、いいものなのだろうな。秀衡殿は俺を実の息子のように扱ってくださるが…時々思うのだ。血が繋がった家族とは、どういうものなのかと…」
『まぁ、九郎さま。そんなの金が五匹でも、六匹でも産んで差し上げますわ』
「ふっ、お前は時々俺が言っていることがわかっているような顔をするな」
微笑んだ九郎さまは、それっきり黙ってしまわれて。
大好きだったあの時間は、あれが最後になってしまったの。
九郎さまが平泉を出て、「頼朝」というお兄様の元に行ってしまったのは、あのすぐ後のことだったわ。
 
「金?」
声がする方を見れば、イナゴ漬け女が剣を手にして立っていた。
『なんなの?あんた、まだ九郎さまのお傍にいたの?』
「九郎さんに会いに来たの?」
『えぇ、そうよ』
「もうちょっと待っててね。そろそろ終わると思うから」
『知ってるわよ。あんたなんかより、ずっと昔から、あたしは九郎さまを知っているんだから!』
イナゴ漬けは、優しい眼差しで九郎さまを見ていた。
「九郎さんね、最近すごく稽古の量が増えてるの。先生にもうやめなさいって言われても、もう少し、もう少しって」
『九郎さまは、昔から練習熱心だったのよ』
「私には、なにもしてあげられないんだ…」
『ええ、そうよ。あんたの出る幕なんか、もうないわよ。なんたって正妻のあたしが…』
「大好きだったお兄さんに追われて、仲間に…景時さんに裏切られて…。九郎さん、すごく傷ついてるはずなのに、私は一緒に稽古するくらいしかできないの」
九郎さまは、一人で刀を振るっていた。
幾度も幾度も振り下ろされるその切っ先に、なにを見ているのか、あたしにはわからない。
九郎さま。
家族とはどんなものなのだろうと、期待に満ちた瞳でこの地を出たあなたに、お兄様は優しくしてくださらなかったのですか?
「悔しいなぁ…」
『……?』
「好きな人に、何もしてあげられないって悔しいね」
やっぱり。
やっぱりこの女は、九郎さまのことが好きなのね。あたしの女の勘は正しかったわ。
『なによ、なによ!九郎さまはあたしのものよ!あんたなんて尻尾もないイナゴ漬けじゃないの!』
「なんだ、金。屋敷を抜け出してきたのか?」
振り返ると汗を拭う九郎さまが立っていた。
『九郎さま!あなたに逢いに来たのです。今宵こそ、あたしを本当の妻にしてくださいませ』
想いをこめて、あたしは九郎さまに抱きついたわ。
好きです、愛しています、あなたの御子を産ませてください!
「ふふ、金は本当に九郎さんが好きなんですね」
「そうか?…俺が拾ったことを、覚えているのかもしれないな」
「金はいいなぁ…」
『……なによ?』
「……?なんだ?」
「好きって…素直に態度に出せていいなと思って」
『好きなものは好きなんだから、態度に出るに決まってるじゃないの』
「……決めた。私も金を見習うことにします」
「さっきから何を言ってるんだ?金の何を見習うんだ?」
「だから…」
『ちょと待って』
「私も」
『待ちなさいって』
「九郎さんのことが大好きです」
『待てって言ってるでしょぉぉぉぉ』

平泉の地に、あたしの叫び声が高く高く響き渡った。

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