忍んでくる夜気は張りつめた冷たさを孕んでいた。
けれど、まだ火照りを残す躰に酒をあおれば、それはむしろ心地よさを覚える。
御帳台の内で眠る少女を冷気から守るように几帳を移動してやりながら見遣れば、先ほどまで艶めいた声をあげていた想い人は濃紫の髪を枕辺に散らしてあどけない寝顔を晒している。
その顔をしばし見つめて口唇の端に笑みを浮かべたヒノエは、円座に腰を下ろすと再び外の景色に視線を移した。
半蔀の向こうにはわずかばかりの明かりを反射して、ちらちらと白いものが舞っている。
今年最初の雪はまだ降り始めたばかりだ。
今夜あたり降りそうだと言ったヒノエに、熊野にも雪が降るんだねと目を輝かせていた望美は、積もればいいのにと子供のようなことを口にしていた。
── さて、姫君の願いは叶うかな…
望美の生まれ育ったあたりでは、雪遊びが出来るほどに積もることは稀だという。
京に比べれば温暖な熊野も似たようなもので、高い山の上ならいざ知らず、大雪が降ることなど滅多にない。
そう教えてやると、鉛色の空を残念そうに、それでもどこか諦めきれない眼差しで見上げていた。
元は龍神の神子である彼女が望むなら、京を守護している龍神も、応えてこの地に雪を運んでくるだろうか。
そんなことを思いながら、ヒノエは酒を口にした。
「くしゅっ…」
ふいに響いたくしゃみに視線を投げると、御帳台の中でうつ伏せたまま顔を上げている望美がいた。
「悪い。寒かったね」
蔀戸を閉めようと立ち上がったヒノエに、
「そのままでいいよ」
と静止の声がかかる。
再びそちらを見遣れば、綿入れの下から身を起こした望美の肩から、着せ掛けられただけだった衣がはらりとすべり落ちた。
小さな悲鳴をあげて慌ててこちらに背を向けた姿を見守っていると、落ちた単に袖を通して紐で結わえ、ようやくこちらを向いて口を開いた。
「雪…降ってきたんだね。雪見酒?」
「ああ。姫君は今夜はもう目を覚まさないと思ったからさ。ふふ、足りなかったのかな?」
「またすぐ寝るもんっ」
明かりが充分に届かない御帳台の中ではその顔色まで見てとることはできないが、照れ隠しの拗ねた口調に頬を染めていることは容易に想像がつく。
「せっかく目を覚ました眠り姫を、このまま黙って寝かせるはずないだろ」
本気半分の軽口をたたきながら酒器を傾けたが、酒はほんの数滴、申し訳程度に杯へと落ちただけだ。
「あ、私持ってくるよ」
気づいた望美は褥から立ち上がろうとして、けれどへたりと座り込んでしまう。
「~~~~っ」
先ほどまで過ごしていた時間を思えばそれは当然のことで、クッと笑い声を漏らすと、恨みがましい視線を投げてきた。
「もぉ、笑うことないでしょ。誰のせいよ」
「さてね。オレ以外の野郎じゃないってことなら、知ってるけど?」
「あっ当たり前でしょっ」
「そこにいなよ。自分で持ってくるからさ」
笑いを堪えながら機嫌のいい声音で言ったヒノエは、立ち上がってウィンクをひとつ残すと部屋を後にした。
ヒノエがいなくなると、室内は急にシンと静まりかえった。
降りしきる雪が、音という音をすべて吸い込んでいるのではと思えるほどに、いつもの夜より静寂が深い気がする。
望美はひとつ息をつくと、両手をついて注意深く立ち上がり、先ほどまでヒノエが座っていた場所にそろりそろりと歩を進めた。
火鉢の炭は赤く熱を放ってはいたものの、その傍に腰をおろしても、戸を開け放ったままではさすがに少し寒い。
板の間のひやりとした感触に体温を吸われていくような心地もしたが、だからといって足もとがおぼつかない今は、上に羽織るあれこれを取りに歩くのも億劫だ。
衣の前をかきあわせるように自分の腕を抱き寄せて、望美は降りしきる雪を見上げた。
「積もるかな…」
熊野で初めて目にした雪を前に、望美は小さく呟いた。
『ゆきうさぎつくろうよ~』
その年は珍しく雪が多く、子供の膝まで埋もれるほどに積もった。
お気に入りの赤いミトンをつけ幼馴染みふたりと遊んだ、あれは小学校に上がる前の年だったろうか。
『そんなのあとあと。ゆきがっせんしようぜ』
『え~うさぎ~』
有川家の庭で遊ぶのはいつものことで、それでもその日は、よく知る庭が白銀に染まり、まるで初めての場所のように見えてワクワクした。
『のぞみちゃんのうさぎをつくってからにしようよ』
いつも望美の味方をしてくれた譲と。
『しょうがねえなあ。じゃあ、うさぎつくったらゆきがっせんな』
いつも結局は望美の願いを聞いてくれた将臣と。
三人で髪がびっしょりになるほど、寒さを忘れ、雪まみれになって遊んだ。
たしかあの時は、みんな揃って風邪をひいて寝込んだのだ。
『いくら仲が良くても、風邪まで一緒にひかないでいいのよ』と両方の親たちに笑われたのを、なんとなく覚えている。
子供の頃から三人でいるのが当たり前で。
春も夏も秋も冬も。
思い出の中にはいつも互いの姿があった。
いつまでも子供時代のようにはいかないと頭の隅でわかっていながら、その時間が少しでも長く続くように願っていたけれど。
将臣は遠く南の島へ。
譲は生まれ育った世界へ。
そして望美は熊野。
三人はこんなにもバラバラになってしまった。
子供の頃なら、誰かひとりが遅れたなら、待つことも手を差し伸べることもできた。
でもそれはもう、叶わない。
置いていったのでも置いていかれたのでもなく、みんなが進む道を違えてしまった。
望美が選んだのは、他の誰でもなく、ヒノエと共に在る未来だ。
後悔はしていないし、間違ったとも思わない。
それでも、もしも京に来たりしなければ、自分たちは今でも三人で過ごしていたのだろうかと考えると、少しだけ寂しさや切なさを覚える。
胸に生まれたひやりとした塊を、ため息に代えて外へ放つと、白いそれはすぐに霧散した。
厨から戻ると、火鉢の傍で外を眺める望美がいた。
舞い落ちる雪を見つめているはずの横顔は、けれどもっと遠く、遙か世界を見ているようで、戻ったヒノエに気づく気配はない。
入口に寄りかかってしばしその姿を見つめていたヒノエは、望美のこぼしたため息を合図にそっと声をかけた。
「寒くないかい?」
はっとしたようにこちらを見た望美は、すぐにやわらかな笑みを浮かべて首を振る。
「あ、うん、大丈夫」
彼女の『大丈夫』は、こと彼女自身に対する時はあまりあてにならない。
「そう?」
答えながら望美に近寄ると、持ってきた酒を置いて、背中から包むように抱きしめて座った。
案の定、望美の指先は既に冷たくて、苦笑しながらまわした腕にほんの少し力をこめた。
冷えた手に己の熱をわけてやるように包み込むと、視線は外に向けたまま、望美はぽつりと言った。
「南の島にも雪は降るかな?」
なにを思っての言葉かなんて訊かなくてもわかるから、
「オレの腕の中で、他の男の心配かい?」
その表情を覗き込むようにして、頬に口唇を寄せた。
「そういうんじゃないけど…。まさか、やきもち?」
望美のなかにある想いが、恋じゃないことは知っている。
いっそ恋ならば塗り替えることもできただろう。
友情よりも強く、兄妹に寄せる思いにも似たそれは、時折自分へと向けられた想いよりももっと深く、望美に刻まれているような錯覚を覚えた。
「『まさか』、ね…。他の男を気にかけてるなんて妬けるに決まってるだろ。あいつはオレが知らない頃のお前を知ってるし?」
すべて手に入れたはずなのに、自分の知らない頃の望美まで欲しがるのは、聞き分けのない子供のようだと自覚している。それでも望美の想いも思い出も、全部つかまえておきたいのだ。
「知らない頃って…子供の時じゃない。私だってヒノエくんの子供の頃のこと、あんまり知らないよ?」
肩越しに振り返って可笑しそうに笑う望美に、ヒノエも瞳を和ませた。
望美はヒノエのその様子に安堵したように、なにも言わずに再びその背を預けるようにもたれかかってきた。
「積もったら…雪うさぎを作ろうかな」
「そのくらいなら、積もるかもね」
雪は降り始めよりも勢いを増している。初雪にしては珍しいが、この様子ならば、望美が願う程度には積もるかもしれない。
「ヒノエくんも一緒に作る?」
「姫君がご所望ならば、献上するよ」
「じゃあ、ふたりで作ろうね」
ふと息をつき、雪を見上げた望美に倣うように、ヒノエも外を見遣る。
「……子供の頃ね」
数瞬の沈黙の後、望美がぽつりと言った。
「子供の頃、私、将臣くんより駆けっこが早かったの」
「望美がかい?」
「意外?」
「まあね」
「将臣くんにも、譲くんにも、負けなかったんだから。でもそれがあっという間に同じくらいになって、気づいたら追いつけなくなって…」
「へぇ…」
あの二人がいつから望美に特別な想いを寄せていたかなんて知らない。それでも身近にいた女の子に負けたくなくて、必死だったであろう幼い男の矜恃を思う。
「女の子なんてつまらないって思った」
「……」
「平家と戦っている間もいつも思ってた。男だったらもっともっと強くなれて、みんなを守ることができるのにって」
炎に呑まれた運命すら違っていたかもしれないと、己のどうしようもない無力さを呪った。
剣をふるっても、男相手ではどうしたって力負けするのが悔しくて仕方なかったあの頃は、駆り立てられるように稽古していた。
「姫君が男だったら?そいつは願い下げだね。もしもお前が男なら、熊野は動かなかったぜ?」
「ふふ、源氏が優勢だったら動いたでしょう?龍神の神子が男だったら…誰にも負けない強さがあったら…なぁんて。そんなこと考えてもしょうがなかったんだけど」
「……。強かったよ。オレはいつだってお前に敵わなかったからね」
どれほどの重圧の中で、前を向いていたのか。
その細い肩にどれほどのものを背負っていたのか。
傍にいた誰もが、彼女の内に秘めた強さに目を瞠っていたに違いない。
そんなヒノエの言葉も望美には冗談としてしか響かなかったのか、どこか仕方なさそうに口唇の端を引き上げただけだった。
「でもね、今は違うよ。ヒノエくんに出逢って、好きになって…私、女の子でよかったなぁって思った」
照れながらも甘えるように肩口に頬をすり寄せるその温度に、ふと息がつまった。
「だからね、……」
腕の中で振り返った望美は、ヒノエと目が合うと、言葉のつづきを飲みこんだ。
「……? なんだい?」
黙ってしまった望美を促すように問うてやると、伸びてきた細い手が、慈しむように緋色の前髪をそろりと撫でる。
「ヒノエくん、時々そんな表情するよね」
「そんなって…姫君にはどんな顔に見えるのかな?」
「……。あのね、私今ちゃんと、幸せだからね?」
わかってる?と小首を傾げて問う彼女の視線から逃れるように、その首筋に顔を埋めてきつく吸い上げる。
「ちょっ…」
どこまでだって翔んで行けたはずの、腕の中の天女。
おそらくこの地よりも多くの物があふれ、彼女の願いも遙かにたやすく叶ったであろう天津彼方の世界。
羽衣を奪い、この地に縛り付けたのは罪だろうかと思ったことがある。
けれどそんな考えはすぐに捨てた。
それがどれほど罪深いことでも、結局彼女の手を離すことなどできないのだ。
そんな自分に向けられた望美の言葉に、どれほどの安堵と幸福を覚えているか、それを口にしている本人は知っているのだろうか。
「誤解しないでね?懐かしめるくらい平気になってきたの」
ヒノエの様子をどう受け取ったのか、望美は体ごとこちらに向き直ると、言葉を選びながら一生懸命に話し出す。
「前は思い出すとやっぱり淋しくなったし…今も全然平気ってわけじゃないけど、でもね」
ヒノエは望美の背に腕をまわすと、閉じこめるように両の指を組んだ。
「私、この世界に残ったこと、後悔したことないの。後悔したらどうしようって本当はちょっと心配だったけど、毎日幸せで、後悔するヒマなんて全然なかっ…」
言葉の続きを口唇で受ける。
差入れた舌を望美のそれに絡めて軽く吸い上げながら、抱き上げて膝の上に座らせた。
「……っ、話してるのに…」
「聞いてるよ」
「もぉ…。まぁいいや。だから、私、幸せだからね」
「……。心をぞ、わりなきものと思いぬる…か」
逢いたい相手を目の前にしながら、なおも恋しく思えてたまらないと詠んだ古人を、ふと思う。
時を重ねても、愛しさは募るばかりだ。
そんな想い人が傍に在って、『ふたりでいる今』が『幸せ』だと微笑んでくれるなら、きっとこれ以上の幸せなどないだろう。
「見るものからや、恋しかるべき…だっけ?ふふ、私も同じだよ?」
「へぇ…」
「なに?」
少し前までは、歌を口ずさんでも不思議そうに首を傾げるばかりだった望美の変化に目を瞠る。
思えばよく歌の本を開いていたが、あれは伊達ではなく本当に勉強していたのだろう。
「いいや。そいつはよかった…」
角度を変えて口づけようとすると、察したように望美はヒノエの肩に手を掛けてそっと押した。
「ヒ、ヒノエくん…お酒呑むんでしょう?せっかく持って来たのに」
至近距離で向き合うことが照れ臭いのか、目を合わせずに困ったように俯く姿が愛おしい。
もう数え切れないほど肌をあわせたはずなのに、時折見せる物慣れない仕草は、初めての夜と変わらないようにも思える。
「酒?ふふ、そうだね、飲もうかな」
ヒノエの言葉に、望美は頷いて膝を降りようとする。
「あの酒はもういいよ」
先ほどヒノエが持ってきた酒はまだ手もつけていない。
それなのに他の酒を飲むというのだから、望美が不思議そうな表情をするのは無理からぬことだ。
「他にもあるの?取ってこようか?」
「もっと極上のものがあるよ。ここにさ」
耳朶に軽く歯をたてて、ちろりと嘗め上げるとぴくりと肩が震えた。
そのまま舌を這わせながら、衣の合わせ目から忍び込ませた指先で、望美の脇腹をたどる。
「お前ほどオレを酔わせるものはないから、ね…」
耳に直接注ぎ込む声に、あえかな吐息があがる。
どこを爪弾けばどんな音色で啼くのか、既に知り尽くしたその肢体を指先で辿っていく。
「ぁ…っ…」
ひいた熱を呼び覚ますように、背中を緩やかになぞりあげると、おずおずとヒノエの背に腕がまわされた。
「雪が、花びらみたい…だね。…んっ…」
仰向いて白い喉をさらしながら彼女はそんなことを呟く。
横目にちらりと外を見れば、雪はいつのまにか粉雪でなく、優美に舞い落ちる花片のようなそれに変わっていた。
「そうだね…でも雪なんかじゃなくて…今はオレだけを見て?」
はだけさせた衣の下からのぞく胸の頂きを口に含む。
「オレだけを感じて…」
「ふっ……やぁ…あ…」
舌でころがしてやると、甘い声が口唇からあふれ出し、ますますヒノエを酔わせていく。
「……たい…ね…っ」
「ん?」
「京の、桜…っ…た、見たい、ね」
顔をあげると、潤んだ瞳がじっとこちらを見ていた。
「桜…ね」
ふたりで見たあの桜は、今年も薄紅の霞のように咲き乱れるだろう。
舞い散る桜吹雪の下を舞うように歩く、あの日の望美の姿が鮮やかに蘇る。
「そうだね…まずは、お前の肌に咲かせようか」
先刻の行為で首筋にも鎖骨にも、いくつも咲かせた紅い花弁。そこに新たにひとつ咲かせてやれば、雪の肌が微かに震えた。
「もう…いっぱい…咲いてるよ?」
艶やかに咲きつづける花は、この腕の中に──。