宵の花片 夜半の月

 そろそろお湯も冷めてきたような気がする。
 ヒノエの後、望美が入る前に新たにお湯をたしてもらったとはいえ、もうそれなりの時間が経過したのだろう。
 先ほどから湯に浸かって悶々としている望美には、そんな時間感覚はないけれど、それにしてもこれ以上入っていては大概のぼせてしまうに違いない。
 そうは思うのに出るに出られないのは、この後のことを思えばこそ。
「はぁ」
 浴槽の縁に頬杖をついて盛大に溜息を落としても、目の前の問題は解決するはずもない。

 神世降かむよくだりの儀を経て、目まぐるしく過ぎた日々。婚儀までのあれこれを終えて、前別当家での酒宴が始まったのは、日も傾きかけた頃のこと。
 内輪の人間だけでの無礼講とはいえ、ざっと百人近く居たに違いない。
 気軽に話せる相手がひとりでもいれば、もう少し楽しく過ごせたのかもしれないけれど、熊野に来てすぐに神世降の儀に入った望美にそんな存在がいるはずもなかった。
 頼りのヒノエはといえばそうそう花嫁に構っていられるはずもなく、宴から解放されるまで、望美は緊張の連続だった。
 だから忘れていた。いや、忘れていられた、と言うべきだろうか。

『オレは婚礼の夜に花嫁を寝かせるほど、甲斐性ナシじゃないつもりだぜ?』

 産再来うぶさらいの日の朝、さらりと告げられたあの言葉。
 婚儀を済ませたのだから、今宵はつまり初夜ということだ。
 藤原邸からの帰り道、馬上でそれを思い出した望美が真っ先に口にしたのは、『帰ったらお風呂に入りたい』だった。
 宴で食事は済ませてしまったし、家に帰り着けば、すべきことはなにもない。せいぜい後は寝るくらいのものだけれど、今日の「寝る」は即ちソレを意味していて、それ以外になにかすることといえば湯浴みくらいしか思いつかなかった。
 花嫁を乗せた馬の轡をとって歩いていたヒノエが、『それならとっとと帰ろうぜ』と望美の背後に飛び乗って、馬の腹を一蹴りしたのは想定外。少しでも床に入る時間を遅くしたかったのに、馬を走らせてしまっては元も子もない。
 だからそのぶん、というのも少し違うけれど、望美は常の倍以上の時間をかけて湯浴みをしている。

 すっかりふやけてしまった指先は、神世降の間は幾度も目にしたものだった。
 儀式の間は日に三度も温泉に浸かった。温泉好きな望美とはいえ、日に三度ともなれば、さすがに最後は苦痛に思う日もあった。
 その温泉の効能だろうか。肌が以前よりすべすべになった気がする。けれどもそれは気休めにしかならず、逞しくなったように思える腕も、そこに走る刀傷もなくなったわけではないし、けして大きくはない胸が育ったわけでもない。
「はぁ…」
 好きな人と初めて結ばれるというのは、もっと幸せな気持ちなのだろうと思っていた。けれど、いざそれが目の前に迫ると、幸せよりは緊張と不安が勝る。
 望美はぱしゃりと湯を跳ねさせて、浴槽から立ち上がった。途端に軽く目眩がして、そろそろ湯殿にいるのも限界だと体が訴えている。
 心を決めて、花嫁はようやく湯殿を後にした。

「オレが見に行くか人をやろうか、迷っていたところだよ」
 部屋に戻ると、外を眺めていたヒノエは開口一番、そう言った。
 今日は直垂を着て過ごした花婿も、望美と同じく湯浴みの後は単姿だ。まだ乾ききらない髪のせいか、常以上に艶めいて見えて、振り返りざまの笑顔に鼓動が大きく跳ねた。
「のぼせて倒れてるんじゃないかってさ」
「あ、う、ううん。汗かいたし、疲れたし、ゆっくり入っちゃった。待たせてごめ…」
 待たせて、とはいったいなにを待たせたのかとふと思い至り、思わず言葉を飲み込んだ。
「ま、酔い醒ましの時間としては調度よかったかな。ったく、どいつもこいつも面白がってつぎやがって」
 酒宴の間中、彼は杯に酒を受け続けた。祝いの席の決まり事とはいえ、酒に弱くはないヒノエを酔わせてやろうという輩も多かったのだろう。
 熊野には当然のことながらヒノエを子供の頃から知る者が多い。年配の者にすれば、いくら『別当』にして『水軍の頭領』とはいえ、まだまだ『ひよっ子』に映るらしく、『湛増も立派になったな』と豪快に笑って、彼の頭を撫でている者も見受けられた。
 どこかバツの悪そうなその時のヒノエの表情を思い出し、望美は笑い声を漏らす。
「なに?」
「ううん。やっぱり熊野だと、ヒノエくんは寛げるんだなぁって思っただけ」
「そりゃそうさ。……? 座れば?」
「う、うん。あっ、そう、私、喉乾いたから、お水でも持ってくるよ」
 ヒノエと微妙に距離をとったまま立ち尽くしていた望美は、もう一度湯殿に戻りたい衝動に駆られていた。
 ふたりきりというのは、やはり平常心ではいられそうにない。まさか再び湯浴みするわけにもいかないが、とにかく一度この場を離れたくて、思いつきを口に出してみる。
 それなのに。
「飲み物ならそこにあるよ。水じゃないけどね」
 退路はたったひと言で断たれてしまった。
「あ、そう、なんだ。お酒?」
「いいや。酒もあるけど、望美は苦手だろ?」
「うん」
 彼の指し示す素焼きの椀を手にとると、よく知る甘い香りが立ち昇る。
「この匂い、蜂蜜?」
「ご名答。姫君のお気に召すといいんだけどね」
 椀に口をつけると、爽やかな甘さが一杯に広がった。
「おいしいっ」
 目を輝かせた望美に、ヒノエは立ち上がって歩み寄ってくる。
「祝いの品がいろいろ届けられたろ? あの中に蜂蜜漬けの梅があってさ。蜂蜜梅茶ってところかな」
 そのまま隣に腰を下ろしたヒノエは、「気に入ったかい?」と窺うように覗き込んでくる。もうそれだけで身の置き所に困る望美は、残ったそれをゴクゴクと飲み干して椀を置いた。
「うん、おいしかった。ありがとう」
 とにかくヒノエの顔が真っ直ぐ見られない。せめて沈黙が訪れないように、望美は思いつくままに言葉を紡いだ。
「今日はすごかったね。内輪の宴って聞いてたのに、人数が多くてびっくりしたよ」
「あぁ、まぁね。ここいらの親類縁者だけでも、相当いるぜ?」
「そうなんだ」
「姫君に会わせたい奴は他にもいるんだけど、生憎熊野を離れてる奴らもいるからさ。ま、そのうちな」
「そうか。船とかで出掛けている人もいるんだもんね」
 望美はどうにか受け答えをしながらも、実のところ会話の内容はまったく頭に入っていなかった。今、沈黙が降りてくれば、流れはそういう方に行ってしまうに違いない。どうにかそれを避けるためにも、話題を次々ふらねばならない。
「もっとも、この花はオレだけが愛でていられればいいから、誰にも見せたくないってのが本音だけどね」
 そう言うと、ヒノエは先ほどから一向に目を合わせない望美の髪を指先で掬い、そっと口唇を寄せた。
「そ、そんなの、退屈でイヤだよ。あ、速玉大社の人とかもいたね」
「……? 望美?」
 望美は視界の端、格子窓の向こうに動く何かを見つけてそちらを見遣った。
「桜?」
「あぁ。風が出てきたね。お陰で月を隠す無粋な雲は、はらわれたみたいだけど」
 言われてみれば帰り道は、月夜にしては暗かったような気がする。空を見上げる余裕などなかったから気付かなかったけれど、なるほど、雲に遮られていたかららしい。
 こうして格子窓の向こうに舞う花片が見えるほどの月明かりならば、今夜は満月なのかもしれない。
「花吹雪、綺麗だね」
 ここぞとばかりにヒノエの横から立ち上がり、望美は格子窓に歩み寄った。
「こんなに散っちゃったら、お花見、間に合わないね」
「望美?」
「京で見た桜も綺麗だったよね」
「……」
「熊野にも綺麗な桜があるんでしょう? あのね、私が通ってた学校の桜も……」
「望美」
 遮るように呼び掛けられて仕方なしに視線を投げると、彼は楽しそうに目を細めていた。
「ここにおいでよ」
 トントンと、先ほどまで彼女が居た床を叩いて示す。
 そんな風に呼ばれてしまえばもう拒む口実もなく、俯き加減のまま歩み寄って、ヒノエの前にぺたりと座った。
「で? 学校の桜が?」
 尋ねながら、緩やかな動作で望美の背に腕をまわしてきた。けれども、それ以上抱き寄せるでなく、ただ腕の囲いの中に穏やかに閉じこめているだけだ。
「が、がっこう……えと、き、綺麗だった、よ」
 性急な動作はなにひとつないのに、望美は震え出す体を止められない。
 そっと上目遣いに盗み見ると、こちらをまっすぐ見つめているヒノエがいて、慌てて目を伏せた。
 やがて、顔が近づいて来るのが気配でわかり、望美はぎゅっと瞼を閉じる。
 口づけなら、初めてじゃない。けれど今日は、どうしたってその先を考えてしまうから、緊張は高まり、体はこわばるばかりなのだ。
 予想に反して、口唇は額に降りた。
「オレが、怖い?」
 囁きに、おそるおそる目を開けると、ほんの少し困ったように眉を寄せるヒノエがいる。
 
── ヒノエくんが…怖い?

 自問してもよくわからない。
 怖いというのは少し違う気がした。
 けれど、こわばる体は相変わらずで、それならば自分は何を怖れて震えているのだろう。
「怖い…っていうか。ヒノエくんが怖いんじゃなくて、だからあのね」
「うん?」
「だって私こういうの慣れてなくて。は、初めてだし」
 いったい何を口にしているのだろう。
 わからないままに、それでもなにかを伝えたくて、言葉を探す。
「ヒノエくんは、こんなの全然なんでもないかもしれないけど、私は、だって私どうしたらいいかわからないんだよ」
「なんでもなく、見える?」
 うん、と子どものように頷くと、ヒノエは途端に破顔した。
「なんでもないなんて、あるはずないだろ」
「え……?」
「確かに、オレは姫君より慣れてるかもしれないけどさ。本気で惚れた女を抱くのは、お前が初めてだよ。望美」
 望美はようやくちゃんと顔をあげて、ヒノエを正面から見つめた。
 そんな望美を、ヒノエはそっと抱き寄せて、緩やかに背を撫でてやる。幾度か繰り返されるそれに、徐々に体のこわばりも解けていく。
「目を合わせるのも嫌なくらい、嫌われたのかと思ったぜ?」
「そんなこと」
 あるわけないよ、と否定すべく身を離して見れば、弱気な発言に反した上機嫌な顔つきだ。
「嬉しそうだね」
「当然。この世の誰よりも愛しい女が腕の中にいるんだ。嬉しいに決まってるだろ。望美は? オレといて、嬉しくない?」
「知ってるくせに」
「聞かせてよ。お前の声で、この口唇で」
 指先で口唇を撫でられて、背筋に甘いしびれが走る。その言いしれぬ感覚の正体もわからぬままに、望美は羞恥心を精一杯抑え込んで、本音を口にした。
「う、嬉しいよ。好きな人のお嫁さんになれて、嬉しくないはずない…きゃっ」
 ヒノエは望美を横抱きに抱き上げると、恭しく褥に運んだ。
「え、ちょ、待って」
 静かに横たえられて、展開についていけない望美が制止をかける。
「ダーメ。もう待たないよ」
 そんなぁ……と情けない表情で見上げてくる女が愛おしい。
 再び身を固くして、怯えた仕草を見せる彼女を、けれどもう逃してなんてやれなかった。
「だ、だってこんな、そんな……明るいし」
 燈台の明かりが、ほんのわずか及ぶ程度だ。けして明るくはないけれど、それでもこうしてお互いの顔がわかるのは、明る過ぎるように望美には思えた。
「明るくなんて、ないだろ?」
「あ、明るいよ。だってこれじゃヒノエくんに見えちゃうもん」
「なにが?」
「は、裸とか」
 自信を持って差し出せるものなど、生憎なにも持ち合わせてはいない。
 なのにヒノエときたら、望美のその言葉にくすくす笑いながら、見せてよと囁いた。
「お前の肌も顔も。なにもかも、全部。オレに見せて?」
 ヒノエはなおも何かを言い募ろうとする少女の口唇を、そっと人差し指で塞ぐ。
「いいから。オレに任せて。ね?」
 囁いて、唇を寄せた。
 ふれるだけの口づけを幾つか繰り返す。やがて、堅く結ばれた唇を包み込むように塞いでいく。
 腰紐をといて、衣の合わせ目をそっとはだけさせると、拒むように細い肩が揺れた。
 口唇を優しく割って舌を差入れると、望美のそれは怯えたように逃げてしまう。
「……っ」
 口づけはもう幾度か交わしていたけれど、こうして思うさま味わうのは初めてだった。それは物慣れない望美を思いやってそうしてきたということもあるけれど、実のところこんな風に口づけてしまえば、途中でやめる自信がなかったからだ。
 歯列をなぞり、ゆるやかに誘いこめば、おずおずと応え出す。ひどく拙いそれに、けれどヒノエは夢中になった。
「…っ…は…ま、待って、苦しい」
 ふいに望美が口唇をほどくと、苦しげに息をついだ。
「息は止めなくていいんだぜ?」
「わ、わかるけど。だってうまくいかないんだよ」
「ふふ、慣れるまで、いくらでもつきあうよ?」
 望美の答えを待たずに、ヒノエは再び口唇を寄せていく。
 その言葉通り幾度となく施された口づけは、やがて全身をくまなく辿る。

 格子の向こうを舞った花びらのごとく、己の肌に幾つもの紅い花が咲かされたことに花嫁が気付いたのは、翌朝になってからのことだった。

 

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