罪も罰も怖くない。
 
怖れているのは、ただ ───
 
 
 

 
 
 
帰り着いた途端に降り出した雨は、またたくまに地面を濡らしていく。
土が湿っていく独特の匂いを感じながら、弁慶は間一髪だったとホッと息をつきながら邸内へとあがった。
雨の降りそそぐ庭を見るともなしに見ながら廊下の角を曲がると、視界の端に縁に佇む濃紫の髪の少女が映る。
弁慶が声をかけようとして息を吸い込んだのと、彼女がふと肩を揺らしてこちらに気づいた気配があったのは多分同時。
「望美さん」
その名を呼んだのと、望美がとんと床を蹴って庭に躍り出たのもほぼ同時。
桜色の衣が水を含んでみるみる色を濃くしていくのを見つめながら、弁慶は足早に望美のすぐ近くの縁まで進んだ。
「望美さん?」
彼女はまるで空からの恵みを享受する花のように瞼を閉じて仰向き、降りそそぐ雨をその身に受けていた。
「なにをしているんですか?」
当惑のまま呼びかけると、望美はまるでたった今弁慶の存在に気づいたとばかりに目を開けて、滴る水を拭うこともなく「おかえりなさい」と微笑んだ。
雨脚はどんどん強くなり、周囲の音を飲み込んでいく。
だから弁慶は先ほどよりももう少し大きな声で同じ問いを口にした。
「なにをしているんですか?」
「えーと……稽古していたら雨が降ってきて、でも見てたらなんだか気持ちよさそうで」
季節は秋に移りつつあったが、それでも剣をふるえば汗ばむ暑さだろう。
しかし、だからといってこの雨の中、縁から素足のまま飛び降りるのはあまりに突拍子もない振る舞いで、『おしとやか』とは言い難い望美とはいえ、彼女らしくない行いだ。
「弁慶さんもどうですか? 案外気持ちいいで」
言い終わるのも待たずに弁慶も縁から降りた。
「わ、冗談です、よ」
正面に立ち柔和な笑みを浮かべた弁慶を、望美はまじまじと見つめた。
 
─── ああ……。ちゃんとここに、弁慶さんがいる。
 
望美は無意識に安堵の息をゆるゆると吐き出した。
弁慶は望美の手を引いて軒下に入れてから外套を脱ぎ、それを彼女の頭からすっぽりかぶせてしまう。
「涼しくて気持ちいいでしょうけれど。あまり体を冷やすのは、よくないですよ」
「ちょ、弁慶さん、これ濡れちゃうっ、私は平気ですから」
慌てて外套を取り去ろうとする望美をやんわりと制するように、弁慶は衣ごしにすっかり濡れてしまった濃紫の髪を撫でるように拭い始めた。
「平気、ではないでしょう?」
「このくらい大丈夫です。だから」
「同じ隠すなら、こちらにして頂いたほうが僕としても嬉しいですね」
「……?」
戸惑うように動きを止めた望美の頭を引き寄せるようにして、腕の中に抱き寄せた。
「え……」
「こうしていれば、僕には見えません」
 
地響きのように空気を振るわせて、雷が響く。
小さく震えた肩は、深呼吸するように2つ3つ大きく息をついて、弁慶の胸をそっと押すようにして離れた。
が、次の瞬間、轟いた轟音にひゃっと身をすくませて、すがるように再び腕の中に飛びこんできた。
日頃勇ましく剣をふるう姿との違いがひどく可愛らしく見えて、弁慶は小さく笑いながらその背を撫でてやる。
「君にも苦手なものがあるんですね」
眉を寄せた情けない表情で衣の下からそろりと見上げてきた瞳は、見間違いなどではなく、やはり少し赤かった。
「苦手というか……子供の頃に『悪いことをする子は雷に打たれちゃうわよ』ってよく叱られて。だから小さい時は雷が鳴ると家の中で布団をかぶってました」
幼い彼女が慌てて雷から逃げるさまを思い描き、弁慶はくすくすと笑いを漏らした。
「もぉ、笑わないでください」
「すみません。今は、雷に打たれるようなことをしていないでしょう? だから大丈夫ですよ」
「さあ……どうで、きゃっ」
稲光で目の前が白く光るのとそう間をあけずに響く轟音は、雷が近いことを示していた。
「大丈夫。雷に打たれるとしたら、僕のほうに違いないですから。ふふ、傍にいると危ないかもしれませんね」
「その時は……。その時は、きっと私が守ります」
腕の中の望美は思いのほか真摯な眼差しをこちらに向けていた。
ふいをつかれたように目を瞠った弁慶は、けれど再び響いた雷に身をすくませた望美に表情を和らげた。
「……ホントですよ?」
守ると言ったそばから怯るさまを見られて情けなく思えたものの、せめて決意の欠片なりとも伝えようと、望美は弁慶に念を押した。
「ありがとうございます」
彼はただ、そう言って微笑んだ。
温かくて、優しくて、けれど決してその向こう側にあるものを見せてはくれない表情。
 
─── こんな表情をいつかも見た
 
望美に過ぎったのは既視感。
彼はいつも笑顔の下に、肝心なことをすべて隠してしまうのだ。
最後の最後まで本当のことは教えてくれなくて。
わかったときにはなにもかも手遅れだったなんて思いは、もう二度としたくない。

「やっぱり……私にも雷落ちそうです」
運命を変えるのは弁慶さんの為じゃない。ただ私が、なくしたくないだけだ。
人間が望むように運命を変えるなんて、きっと本当は許されない。赦されなくて構わない。
「君に…ですか。では、その時は…」
「先輩? そんなところで、裸足じゃないですかっ! あぁしかも弁慶さんまで! ふたりとも何をやってるんですか!!」
やって来た譲の剣幕に、ふたり目を合わせて微笑んで。
「雷、ですね」
「ふふ、落ちたようですね」
こそりと互いの耳にだけ届く声で囁いた。
 
 
望むものはたったひとつ。差し出せるのはこの身ひとつ。
 
罪も罰も怖くない。

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