another ending  - 凶 報 2 -

日もそろそろ落ちようという時刻。
夕の勤めであろう読経が、本堂から漏れ聞こえてくる。
それを聞くともなしに聞きながら渡り廊下に佇んで、望美はぼんやりと薄闇に溶けていく周囲に視線を投げていた。
 
今宵の宿は、藤沢宿の手前にあった小さな寺である。
本当ならば藤沢宿まで進むはずだったものを、それをしなかったのは望美の疲労が濃く、皆がそれを気遣ったからだった。
 
「望美。こんなところにいたのね」
ホッとしたような表情で声をかけてきたのは朔だった。
それほど広い場所ではないながら、厠に行くと言って部屋を出たきり戻らなかったので心配したのかもしれない。
「ごめんね。もしかして探してた?」
「ええ。湯殿の準備ができたから、夕餉の前に入ってしまいましょう」
「皆は? もう入ったの?」
「先に入ったほうが早く休めるでしょう? 夕餉が済んだらすぐに休んだほうがいいわ」
峠道を馬の背に揺られていた望美が、目眩を起こして危うく落馬しかけたのは今日の昼のこと。
ゆるりとした歩調だったのと、彼女の顔色が悪いのを気に掛けていた弁慶が馬を並べて歩いていた為、すんでのところで着物をつかまえ大事には至らなかったものの一行は肝を冷やした。
「平気だよ? 今日は、ほら、少し暑かったから」
「そんな顔色で言っても駄目よ。本当ならば湯浴みなんてせずに休んだほうがいいくらいだわ」
「それはヤかも」
汗と埃にまみれた体でそのまま寝るのは、どう考えても気持ちのいいものではない。
顔をしかめた望美に、朔は仕方なさそうに小さく笑んで、
「そう言うと思ったわ。さ、行きましょう?」
望美を促して歩き出した。
 
ヒノエと淡路島近くで別れてから、20日あまり。
本当ならば京に着いてすぐ、譲と共に自分たちの世界へと帰るはずだった望美が未だこの世界に留まっているのは、鎌倉で頼朝に会うためである。
 
熊野へ帰ったヒノエ、応龍となった白龍、そして行方知れずになってしまった将臣を欠いた一行を京で待っていたのは、予想以上の歓待だった。
貴族たちからは様々な品が届けられ、後白河院からは宴に招かれた。
内々のささやかなものだと聞いて出掛けてみれば、ずらりと居並ぶ公家衆は口々に九郎の戦での功労を褒めそやす。
そして宴もたけなわという頃、院から、九郎と『白龍の神子』に官位を授けたいと直々に声がかかったのだ。
譲が事前にそれを伝えていなかったなら、九郎はすぐにその場でそれを受けていたに違いない。
 
「もしも後白河院が九郎さんに官位をと言ってきても、すぐに受けないでください」
宴の前に、皆がいるところで譲は自分たちの世界の歴史を話して聞かせた。
源平合戦の後、源九郎義経は院から官位を賜ったが、そのせいで兄・頼朝の怒りを買い、殺されてしまったのだ、と。
「兄上がそのようなことをなさるはずがない」と言って聞かなかった九郎も、弁慶に「一度鎌倉に戻って許可を得ればすむことです」と諭されて渋々承知した。
 
院には丁重に、鎌倉で許可を得てからと申し出たものの、今度は周囲の貴族が「院の言葉よりも頼朝の言葉を聞くのか」と怒りだしたから堪らない。
結局その場は、院のために『龍神の神子』が舞を一差し舞うことで納められた。
 
さすがにそんなやりとりがあっては、その後を見届けずに帰ることなどできようはずもなく、望美も譲も、九郎たちと共に鎌倉へと向かうことにしたのだった。
 
 
「明日には鎌倉に着くね」
湯殿へと向かいながら、望美は呟くように言った。
「そうね。ねえ、望美。あなた……どこか悪いんじゃないの? 弁慶殿に薬を煎じてもらったら?」
「昼間、弁慶さんも言ってたじゃない。疲れが出たんだよ」
朔を安心させるように微笑んで見せながらも、望美は自分の体調が悪い理由を知っていた。
眠れないのだ。
床につき、うとうとと浅い眠りに落ちては、夢に引き起こされる。幾度もそんなことを繰り返すうちに朝が訪れ、結局ろくに疲れを癒せないままになってしまう日々が続いていた。
「そう? 鎌倉で用事が済んだら、京に戻りがてらゆっくり温泉にでも行きましょうね。体を休めてから帰るんでも、遅くはないでしょう?」
「温泉かぁ……。いいね、皆でゆっくり行きたいね」
はしゃいだように、そう口にしながらも、望美の胸には小さな痛みが走っていた。
 
『姫君は温泉が好きだねぇ』
熊野で時間さえあれば温泉に出掛けて行く望美に、ヒノエはなかば呆れたようにそう声をかけた。
 
戦の最中でも、眠れない夜は幾度もあった。
運命は目指す方向に上書きされているのだろうか。
またあの悪夢のような出来事を、目の当たりにするのではないだろうか。
不安に押しつぶされそうになりながら、闇の中で外の空気を吸いに出ると、いつも決まってヒノエが姿を現した。
まるで望美がそうすることを知っていたかのように、けれど偶然だという表情で軽口をたたくのだ。
ほんの二言三言言葉を交わすだけなのに、そうした後はすんなりと眠りに落ちていくことが出来た。
今はもう、そのヒノエはいない。
 
炎に包まれた悪夢はもう見ない。
運命は変わり、皆の命を脅かすものは取り除いた。
 
けれど闇は、今度は違う想い出を連れてきて、望美を容赦なくあの夜に引き戻してしまうのだった。
 
 
『お前の好きなヤツがいるところがお前の世界さ』
 
 
頷くことなどできなかった。
なにも考えずに、ただ好きだという気持ちだけで頷けたならどんなにかよかっただろう。
けれどそんなことは到底できなかった。
 
 
「ねえ、朔。『いやひにけには、思いますとも』って、どういう意味?」
それは別れ際、ヒノエが口にした言葉だ。
恐らくなにか和歌の一節なのだろうとは思ったが、望美にはその意味まではわからなかった。
「万葉ね。……日増しに思いが強まることがあっても、忘れることなどありません。そんな歌よ?」
口唇の端を歪め、瞳を伏せて、朔はそのまま望美が泣くのではと思った。
「……ヒノエ殿ね?」
「うん。はは、そう、なんだ。ヒノエくんってホントすごいよねぇ。こんな歌がぽんぽん出てきちゃうんだもん。ホント……すごいよ」
語尾は小さく震えたものの、それでも望美が涙をこぼすことはない。
「 出過ぎたことだと思うけど……。望美、あなた本当にこれでいいの? 元の世界に帰れば、ヒノエ殿とは2度と逢えないのよ?」
大切な者を失う痛みを、朔は嫌というほど知っていた。
朔が望んだ存在は、永久に失われてしまった。応龍として蘇った黒龍は、朔との時間を共有した者ではない。
この先いくら時間を過ごそうとも、どれほど乞うても逢えないのだ。
けれど望美は違う。
互いに想い合っていたのは十分わかっていたし、望めば傍にいることも出来る。
「後悔するのが怖いって言ったら、笑う?」
「まさか。笑うことなどしないわ。でも……後悔って、生まれ育った世界を捨てたことを後悔するということ?」
「ううん。そうじゃなくて」
 
もう誰もこんなふうに好きにはなれないと思う。
苦しくて、それでも選べなかった。
もしも彼がふつうの少年だったなら、違う選択をしたかもしれない。
けれど彼は熊野別当で、水軍の頭領で。
身分も立場も状況も。
考えれば考えるほど、この世界でなんの後ろ盾も持たない自分では、彼のためにならないことがわかってしまうから。
 
「好きになったことを。出逢ったことまで悔やみそう」
 
それでも。
せめて一度くらい、ちゃんと伝えればよかったかな。
私もヒノエくんが好きだよ───好き……だったよ、って。
 
「なあんてね。ほら、早くお風呂入ってご飯食べよう。お腹すいちゃったよ」
「望美…」
誤魔化すように笑う望美がひどく痛々しくて、朔はかける言葉を失ったまま湯殿へと歩を進めた。

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