another ending 序章

心とは裏腹に、呑気ともいえるほどに穏やかな日だった。
広がる青空にはぽかりぽかりと白い雲が浮かび、時折ふたりの間を抜ける潮風も撫でるほどに優しい。
船出には申し分ない春の陽の下。
数歩分の距離をあけたまま、波打ち際をただゆっくりと歩いていた。
 
「京までお供できればよかったんだけどな。八葉の最後の務めってやつだしさ」
遠く海原に視線を投げていたヒノエは、望美を振り返ると名残惜しそうに言った。
壇ノ浦で清盛を討った源氏の船団は、既に淡路島を越えたあたりに到達している。
「ありがとう。でも、ヒノエくんにはヒノエくんの務めがあるんだもの。気にしないで」
「姫君よりも優先するものなんてないって言いたいところだけどね。……堪忍な」
戦での勝敗が決したとはいえ、源氏、平家それぞれに味方した海賊衆の小競り合いは、瀬戸内海のあちこちで未だ続いていた。
今後の力関係にもかかわってくることで、熊野水軍としても頭領たるヒノエが出て行かねばおさまらない状態である。
源氏の兵を乗せ京や鎌倉を目指す船団から少し離れた場所で、ここまで望美たちを運んできた一団が出航の準備を整えていた。
 
「頭領、いつでも出られますぜ?」
走り寄ってきた水夫は、ヒノエにそう伝えた。
「ああ、じゃあ沖のヤツらから先に出な。オレもすぐ行く」
「へい」
望美に黙礼をひとつ寄越した男は、すぐに踵を返すと仲間達に頭領の言葉を伝えるべく、来たときと同じように走っていく。
そんなさまを見送ってからヒノエを振り返ると、思いがけずまっすぐな視線とぶつかった。
「……なに?」
「この目に焼き付けておこうと思ってね。ただ一輪咲く、花の姿を」
そう言ってから、ふっと苦笑を浮かべて
「もっとも、今更焼き付けなくたって、とっくに胸に刻まれちまってるけどさ」
言葉を続けた。
「ヒノエくんってば……」
冗談ばっかりなんだから、と。
もう幾度口にしたかわからない言葉はでてこない。
その想いが、けして冗談ではないのだと、望美は痛いほど知っていた。
だからただ、誤魔化すように笑みを浮かべる。
 
ふいに数歩分の距離を詰めて、ヒノエは望美の口唇に自身のそれを重ねた。
波がひとつ寄せて返るほどの時は、あっけないほどすぐに過ぎ去る。
 
「怒らないのかい? 姫君」
悪戯を成功させた子供のような表情で茶化しながらも、切なげに瞳を細めて、ヒノエは望美の顔をのぞきこんだ。
呆然としながら、離れていった感触を追うように自らの口唇に手をやった望美は、走り出す鼓動を抑えながら、平常心を引きずり戻す。
「今日だけは特別のトクベツ。でも二度目はないからね!」
顔を真っ赤にしながらも、ヒノエの鼻先に指をたててピシリと告げる。
照れた表情に不似合いな、強気の口調はとても可愛くて、抱きしめたくなる衝動を宥めながら、
「ふふ、いいね。気が強い姫君も、好きだったぜ?」
過去ではない想いを、敢えてそんな言葉で伝えてみる。
彼女はもう選んだのだ。そして自分も決めている。
だからこれ以上はもう、お互いが苦しくなるばかりだとわかっていた。それでも伝えずにはいられないのだ。
そんな気持ちに気付いているのか、いないのか。
嘘の上手でないはずの彼女が、ありがとうと笑ってみせた。それでもそれが限界のようで、つづく言葉は波の音に消されそうなほど頼りない呟きだった。
「元気でね」
 
攫うことならできる。
有無を言わさずに、彼女の言い訳も何もかもを己のせいにして、連れ去ることは出来るのだ。
それでも。
互いが互いを。
互いだけを選べないから。
どうにもならない別れを振り切るように、抱き合ったあの夜。
ふたりの答えは、あの時に決まっていた。
 
「……いや日に異には 思ひ増すともってね」
「……? どういう意味?」
「さてね。あっちに戻って、オレほどの男に逢えなくてもがっかりするなよ?」
「……」
いつものにように何かを言って、湿った空気を笑い飛ばしたかった。
それなのに、あんなに繰り返したはずの軽口が、今はひとつも出てこない。
だからただ。
ないはずの二度目のくちづけを、そっと目を閉じ受け取った。
 
 
 
 
 
京から元の世界へ帰ったはずの望美が、鎌倉で処刑されたという報がヒノエのもとに届けられたのは、この別れから1ヶ月以上後のことだった。
 

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