charmed

「ただい…」
『ま』という言葉は飲み込んで、思わずその場で立ち止まる。
 
『帰ってきたら、「戻ったぜ」とかよりも、やっぱ「ただいま」でしょ』
 
いつか聞いた彼女の言葉に律儀に応えるのは、もちろん見返りがあるからで。
けれども、これではすぐには無理そうだ。
 
 
 
 
 
 * * *

 
 
 
 
 
庭に面した部屋の中。
開け放たれたそこには、やわからな光が差し込んでいる。
柱によりかかって座る想い人は、陽だまりの中ですやすやと寝入っていた。
投げ出された手の傍には彼女が目下勉強中の歌集が落ちていて、読んでいるうちに暖かな陽気に誘われてそのまま眠ってしまったのだろうことが見てとれた。
喉の奥に笑いをとどめて、ヒノエはそろりと望美に近づく。
どうやら熟睡しているらしく、気配で目を覚ますということもなさそうだ。
こんなふうに陽の光のなかで望美の寝顔を眺めることは滅多にない。
そもそも彼女を熊野に連れ帰ってからというもの、それまでこの地を留守にしていたツケが一気にまわってきたような慌ただしさで、昼日中にふたりで寛ぐ時間などろくにとることもできなかった。
もっとも月明かりの中でなら、寝顔以外も日々堪能してはいたけれど。
気配を殺して、その傍らに膝をつく。
顔にかかる髪にさらりと手をかけても身じろぎひとつしない熟睡ぶりに、昨夜は無理をさせすぎただろうかと考えて、それもいつものことかと思い直す。
まだあまり行為に慣れてはいない望美を、いたわるように抱けたことなど結局のところないような気がする。
追いつめて。昇りつめて。
朝が来ないならば、際限なく求めてしまうだろう。
否。
闇の中でも、すべてを晒す光のもとでも、果てないことに変わりはないのだ。
ただ。
望美が意識を手放してしまうから。
そうして彼女の限界を知り、否応なくとどまる。それだけのこと。
記憶をたどるだけてじわりと這い上がる熱に、思わず苦笑する。
「……ん…」
小さく身じろいだ彼女の、薄く開いた桜色の口唇がひどく扇情的にうつる。
 
─── 眠っている時まで、オレを誘うとはね…。
 
夢中になる女を、一瞥もせず置いて帰ってくるのは小気味好かった。
もっとと欲しがる女を焦らしながら、優位に立っていたのはいつだって自分だったはずだ。
なのに。
 
─── わかってるのかい?姫君
 
ただ、ここにこうしているだけで、己を煽ってやまない存在。
本気半分、悪戯心半分。
ヒノエは望美の顎にそっと手をかけ、仰向かせた。
 
 

 
 
顎をとられて軽く仰向かされて。
ゆっくりと覚醒に向かう望美は口唇の感触で、一気に眠りから引き戻された。
「……っ!?」
声にならない悲鳴をあげて、闇雲に突き飛ばそうとした手はさっと握り込まれて。
心臓をばくばくさせながら間近に見た口づけの相手に、望美は少し安心した。
そんな気の緩みにつけいるように、彼の舌はなんなく侵入を果たして誘うようにからまる。
目を合わせたままの口づけに、耐えきれず先に目を閉じたのは望美だった。
「…っ…んっ…」
待って!ちょっと待って!…っていうかなんで!?
寝ぼけた頭で混乱したまま、その戒めから逃れるべくジタバタと抵抗を試みると、思いのほかあっけなく解放される。
「ふふっ、眠り姫がいたから、王子とやらの務めを果たしてみたんだけど?」
望美におとぎ話のたぐいをあれこれ聞いていたヒノエは、抗議の声が上げる前にさらりと告げた。
「~~~っ 王子さまはこんなキスしないもんっ」
いつの間に帰ってきたのだろうか。
状況すらも把握できないままに、それでも精一杯の抗議をこめてヒノエを睨んではみたけれど、口づけの余韻に潤んだ瞳では効果のあろうはずがない。
「こんなって…どんな?」
『キス』の意味を知るヒノエは飄々として望美に訊ねる。
「~~~っ」
「じゃあ…もう1度やりなおすかい?」
二の句が継げない彼女への提案は、
「もう起きマシタ!」
あっさりと却下された。
「つれないねぇ…姫君。今日はふたりで過ごせるように、朝から死ぬほど駆け回ってきたのにさ」
海の上に出たり、遠出をしているのでなければ、昼前に一度帰ってきて望美と昼食を共にするのはいつものこと。それとて本当に食事をしに戻るだけで、すぐに出掛けなければならない。
けれど今日はそうではない。残りの時間すべてが彼女のものだ。
寂しいだなんて間違っても口にしない望美のために、まわりが目を瞠るほどに精力的に仕事に励み、いつもそのくらいやってくれればと側近たちに揶揄されながら、もぎ取ってきた時間である。
「え?ご飯食べてまた出掛けるんじゃないの?」
「出掛けてもいいよ。お前と一緒なら、ね?」
頭の中でもう一度ヒノエの言葉を反芻して。
今日はこのまま一緒にいられるってこと?
わかった途端、嬉しさを隠しきれない表情の望美は、
「あのね、だったら…」
こそりと耳に囁いた。
「いいぜ」
ささやかな願い事に笑みを深くした彼は、それを叶える約束をして。
「でもその前に…ねぇ、姫君。『おかえりのキス』が、まだだよ?」
『ただいま』の見返りを要求した。

遙鎌倉