季節はゆるりと夏へ移行していて、陽が昇る時間も徐々に早くなってきていた。
小鳥たちが起き出して、木々を渡る夜明けがた。
望美がまだ熟睡しているうちに、ヒノエは務めを果たすべく出掛けてしまう。
海へ出たり、遠方に出掛けるのでなければ、昼前には一度帰ってきて彼女と共に食事を済ませ、再び出掛けていく。
そんな毎日。
「いってらっしゃい、気をつけてね」
なんて見送りのひとつもしてみたい『新妻』としてはちょっぴり物足りない。
それが彼女の気分。
「花の笑顔に見送られるのも悪くはないけど、月夜に咲く姿をたっぷり眺めるほうがオレはいいな」
それが彼の言い分。
* * *
「今日は1日中、姫君のお供をするよ。どこに行きたい?」
いつもなら目を覚ますと姿がないはずのヒノエが、今日に限ってうれしそうに望美の寝覚めを待っていた。
こそばゆい気持ちで交わした、おはようの口づけのあとの言葉がそれ。
行きたいところと言われても、名所と呼ばれる場所は初めて熊野に来た時に、ひと通り案内してもらったのだ。考えたところでこれといって思いつきそうにない。
「じゃあ…ふたりでゆっくり散歩がしたい、かな」
「そんなんでいいのかい?」
拍子抜けしたように言う彼は、いったいどんな答えを待っていたんだろうと疑問に感じながら、
「うん。…ダメ?」
遠慮がちに訊いてみる。
「いいや。姫君のお望みのままに」
せっかくだからおにぎりと水筒を持って行き、外でお昼を食べるのも楽しいかも。
望美は遠足気分に心弾ませて、笑みを返した。
ヒノエの先導で、本宮へと続く参道を逸れ、ケモノ道のような場所を歩く。
行く手を阻む下草を踏み分けながら進むのは、望美の思い描いていたような『散歩』と違ってはいたものの、お弁当を携えて出掛けて来ているのだから、これはこれでちょっとした冒険のようでいいかもしれないと、ワクワクしながら後に続く。
軽くあがる息のもと、なんということのない会話をしながら、どれほど歩いただろう。
陽向に出たわけでもないのに、ふと目の前が明るくなり、視界のあちこちに薄紅の花がうつった。
「わぁ……」
甘い香りに満たされたそこは、たくさんの百合がやわらかな風に揺れている。
「まだ見頃には少し早かったかな…。もっと一面に咲くんだよ」
確かに笹に似た葉々の間には、ぷっくりと細長いつぼみがいくつも顔をのぞかせている。
「そうなんだ?でも十分綺麗だよ。それに、すごくいい香り」
「姫君にそう言って貰えるなら、ここの花たちも咲いた甲斐があるというものだね。あっちで少し休まない?」
はしゃいだように言う望美を楽しげに見つめて、ヒノエはそう提案した。
木漏れ陽さす樹の下で、並んで座っておにぎりを食べて。
ふたりで6個は多かったかもしれないと思ったけれど、それらはすっかりなくなった。
「満腹~…」
そう言ってヒノエはごろりと望美の膝の上に寝そべった。
「腹はふくれたし、天気はいいし……。しかも望美の膝枕なんて、言うことなしだね」
上機嫌なヒノエに、
「食べてすぐに寝ると牛になっちゃうよ?」
自分自身、よく親に言われたことを思い出して望美が言う。
「姫君の膝の上なら、それも本望だな」
「ヒノエくんってば…」
仕方ないなぁと笑って言って、彼女は彼の前髪をさらりと撫でた。
「望美の手……気持ちいいな…」
満足げな猫のように目を細めるから、そのまま幾度も撫でてやる。
そのうち喉がゴロゴロ鳴るんじゃないかと考えて、望美はクスリと笑いを漏らす。
「なに?」
「ううん。楽しいなぁと思って」
「ふふ、それはよかった…。なあ、望美」
ふと思いついたように、
「熊野に来てよかっただろ?」
ヒノエが問う。
その質問の意図するところなど、望美はすぐに察しがついたから、さらりと気付かぬふりで答えを返す。
「うん。好きな時に温泉に入れるって、すごい嬉しい」
実のところ、それもかなり本気でよかったと思っていることだった。
こちらの世界では、風呂といえばサウナのような蒸し風呂が普通で、お湯をざばざばかぶるような入浴はそうそうしない。
湯浴みの為にたっぷりお湯を沸かしてもらうというのも気がひけて、以前は気軽に入りたいとは言い出しずらかったのだ。
「姫君はホントつれないよなぁ…。オレの傍にいられて嬉しいとかないわけ?」
口唇をとがらせて、おおげさに残念がってみせるから。
「……知ってるくせに」
それを言ってはあげないかわりに、否定でもない答えを返す。
「知ってるよ。望美はオレのことが大好きだって」
見上げてくる眼差しは自信満々で、それはそれで悔しく感じたりもするから。
「さぁ?どうでしょう?」
やっぱり、そうだよなんて言ってあげない。
「ちぇー……」
つまらなそうに。
けれど口唇の端に笑みを浮かべて、ヒノエは目を閉じた。
ほんの少し無言の時が流れて。
気付けば膝の上の住人は規則正しい寝息をたてている。
熊野で式を挙げてから、ヒノエと1日中過ごせた日などほとんどなかった。
別当の役目と水軍の仕事は望美が想像していたよりも遙かに忙しそうで、
よくも今までこの地を留守にできたものだと感心するほどだ。
─── それはそれ。オレがいないなりに、うまくまとめといてくれるヤツらがいるからさ。
そう言っていたヒノエだが、本人が不在ならばともかく、いる時にはやるべきことは山積みなのだ。
望美より後に寝るくせに、先に起きて出掛けてしまう毎日。
ちゃんと睡眠はたりているのだろうかと心配していたくらいだから、こうしてすとんと眠りに落ちてしまうのも納得できてしまう。
「だからたまには早く寝ようって言ってるのに…」
それを言ってみたこともあるけれど。
結局のところ望美も流されてしまうから、説得が成功したためしがない。
だからせめて、今は少しでも疲れを癒せるように。
望美はただただ静かに、身じろぎもせず、彼の眠りを守ることに務めた。
健やかな寝息。
膝に感じる重さ。
すべてが彼女にとって貴重で特別で、幸せな時間なのだ。
ヒノエの寝顔をこんなにまじまじと眺めるのは初めてかもしれない、と思う。
夜は、なかば意識を飛ばすようにして眠りに落ち、朝起きれば彼はもういないのだ。
寝顔を見る機会など、あろうはずがない。
普段は大人に感じるけれど、寝顔は歳相応か、それよりもっと幼いかも、とか。
睫長いなぁ…。案外お化粧も似合ったりして、とか。
小さな発見をいくつも拾っていく。
なにしろ次はいつ、こんなにじっくり見る機会があるかわからないのだ。
『熊野に来てよかっただろ?』
ふと先ほどの言葉を思い起こす。
熊野に来てよかったか。
そんなこと、答えは決まっている。
もしも逆鱗の力であの日に戻っても、自分は絶対に同じ選択をする。
それはもちろん、彼がいるからだ。
『知ってるよ。望美はオレが大好きだって』
そうだよ。
「………好きだよ?」
小さな小さな呟きに、呼応するように眠っているはずの彼の睫が震えた気がした。
─── もしかして……たぬき寝入り?
寝顔を見つめながら考える。
もしも寝ているならば起こしたくはない。
段々と足が痺れてきて、同じ姿勢でいることがツライといえばツライけれど、我慢できないというほどでもない。
だから、眠っているならばもう少しこのままにしておいてあげたいと思うのだ。
「嘘…。ホントは嫌い…」
試すように、そっと囁いてみたけれど。
今度は睫も震えず、なにも変化がおきなかった。
─── やっぱり寝てるのかな?
だから、その言葉をなんとなく訂正してみる。
「嘘だよ…」
すると、ヒノエはふっと目を開けて
「なにを言っても、オレのことが好きって聞こえるけど?」
会心の笑みを浮かべた。
全部聞かれていたのが、悔しくて恥ずかしくて、望美は途端に真っ赤になった。
「もう!!やっぱり起きてるんじゃない!」
えいっ!とばかりにヒノエの頭を膝からどかして立ち上がろうとしたのに、しびれた足はそれを許してくれなくて。
バランスを崩した望美は、咄嗟にその腕をとったヒノエの上に倒れ込んだ。
「大丈夫かい?姫君」
「ごめん!大丈夫?」
あまりに勢いよく倒れ込んでしまい、先ほどまでのやりとりも忘れて望美は謝った。
「姫君の褥になれるなら喜んで。……ああ、でも」
体を反転させたヒノエは、彼女を草の上になんなく組み敷いて、
「褥よりは、望美を包む袿のほうがいいかな…」
額に口づける。
「寝てると思ったから、起こさないように気をつけてたのに」
照れ隠しに、ふてくされたように言う彼女の頬は相変わらず赤かった。
「寝てたよ。お前の夢を見てた。ふふっ、今もお前がここにいるってことは、これは夢の続きかな」
そう言って口唇を寄せてくる彼の頬を、望美はぎゅっとつねった。
「痛っ、なんだよ、姫君」
そんなヒノエの下から、ころりと転がって逃げ出した望美は体を起こし、
「よかったね。痛いんだったら、夢じゃないよ」
んべ!っと子供のように舌を出した。
てっきり反撃してくるだろうと思い身構えていたのに、ヒノエはそのまま頬杖をつくと、
「いや…、やっぱり夢かな…」
と望美をじっと見つめる。
─── 夢みたいに幸せだよ
そうだね、と。
今度は望美も素直に微笑んだ。
その後。
彼の睡眠時間が増えたかといえば相変わらずで。
新妻のささやかな希望は叶ったのかといえば、こちらも相変わらず。
「だって、望美が可愛すぎるからいけないんだろ」
それが彼の言い分。
だって、悔しいけれど好きなんだからしょうがない。
それが彼女の気分。
だからつまり。
ふたりなりに幸せな毎日。