第六話 見送るとき

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それから半月あまり。
雨期にろくに降らずに迎えた夏は、盛りの今となっても夕立すらない。
鳴き立てる蝉は相変わらずの姦しさだったが、いつもなら水を湛えて夏雲を映す田んぼは、申し訳程度の水たまりが点在するだけの有様になっていた。
みおの畑もせっせと水を撒いてはいたが、このままでは収穫に漕ぎ着けるのは去年の3分の1にも満たないであろうほどに作物が弱っている。それはみおの畑だけでなく、村のどこでも同じ様子だった。
夏はまだいい。実りがなくとも、山に入れば食べられる草も多く茂っているのだから、腹を満たすに事欠かない。問題は秋の実りだ。このままでは、村中の田 畑が枯れ果てかねない。そうなれば、微々たる蓄えなどすぐに底をつき、冬を越すことすらままならないだろう。
 
「我はしばらくここを離れる」
 
いつものように泉を訪れたみおに、璃卯は唐突にそう告げた。
 
「なんで!?」
「大きな声を出すな」
 
岩の向こうで社を拝んでいた女が、怪訝そうな視線をこちらに向けたが、みおがそれを見遣るよりも先に、女は連れていた幼子の手をひいて、そそくさと社を後にした。
 
「離れるってどういうこと?」
「我は天帝に会うてくる。この地に雨を降らせるよう、願いでる」
「願いでるって、そんなこと出来るの?」
「我らが人の地にいるのは、この地を鎮護する為じゃ。手に余るものは、時にその声を天帝に届ける。叶うかどうかは、天帝の御心しだいでわからぬがの」
 
ふと、璃卯が岩の向こうに視線を投げた。倣うようにみおもそちらを見ると、社の石段を数人の童達が駆けあがってきた。それにゆっくりと続く男女は、童らの両親だろうか。鳥居をくぐり、賽銭箱の前に立つと、揃って柏手を打った。
 
「父ちゃん、神様って居るの?」
「さぁ、いねえのかもしれないなぁ」
「ちょっとアンタ! こんなところで罰あたりなこと言うもんじゃないよ!」
 
赤子を背負った女が、男の頭を軽くはたく。
 
「痛ってえな、おい! 罰を当てるような神さんがいるなら、大歓迎ってもんだ。居るならとっくに雨も降ってるだろうよ」
「いいからせいぜい真面目に拝んどくんだよ。このままじゃ、こっちが干からびちゃうわよ」
「違いねえ」
 
もう1度柏手を打った家族は、揃って社を後にする。
黙って見ていたみおは「勝手ばっかり」とぽつりと言った。これまで村人たちは、朽ちていく社を省みることなく、ましてや拝む者などほとんどいなかったの だ。それが、日照りが続き、いよいよ川まで干上がりそうな今になって、ようやく皆は熱心に社に通い、拝むようになった。みおが神様だったなら、こんな勝手 な人たちをどうにかしてやろうだなんてきっと思わないだろう。
 
「放っておけばいいのに」
「それが我の役割じゃ。だいたい、放っておけば、おまえの畑も干からびるぞ?」
「それは……困るけど」
 
このままでは確かに村の全部が干上がって、遠からず皆で飢えることになる。それはわかるけれど、やはりどことも知れぬ場所に彼が行ってしまうのは嫌だった。
 
「天帝ってどこにいるの? 遠い?」
「その泉に底がないと申したのを覚えておるか?」
「うん」
「そこは龍脈。辿った先は、天つ彼方の天帝がおわす国に繋がっておる」
 
言われて、まじまじと水面を見つめる。泉は相変わらず豊かな水を湛えており、村が日照りで乾いているなど、ここに居ると忘れそうになるほどに変わりのない風情だ。
 
(ここが、龍脈……)
 
龍脈とは龍が通る道だと聞いたことがある。それなら璃卯は、龍の神様なのだろうか。
 
「なんじゃ?」
 
ふと、彼の掌──紫の蝶が目に映った。少し前まではみおの顔に張り付いていたそれは、璃卯の掌が当然の住処という顔で彼に寄り添っている。
 
「いいなぁ」
 
蝶はいつでも彼の傍にある。龍脈を辿り、天帝の許に行く時ですら一緒に行くことができるのだ。
 
「私も蝶だったら、璃卯と一緒に天帝のところに行けるのに」
 
そう言って黙り込んだみおに、眉を寄せた璃卯が歩み寄って来る。彼は手を伸べると、みおの柔らかな頬に両手を添えた。鼓動を踊らす少女の心中など知らぬ顔の童は、温度のない指先でみおの頬をつまむと、軽く左右に引っ張った。
 
「い、いひゃい」
「ふ、面白い顔じゃの」
 
満足げに笑った彼は、すべやかな頬をひと撫でしてその手を離すと「蝶では、こんなことも出来ぬであろ」などと言って鼻を鳴らした。
 
「半月もあれば戻る。それまでせいぜい泉に落ちぬように気をつけよ」
「落ちたら、助けに来てくれる?」
「落ちるなと申しておるのじゃ。おまえが溺れ死ぬ前に辿り着くほどの力を使えば、もう当分は天帝の許に行くことすら叶わぬ。よいな? 泉には近づかずにおれよ?」
「うん」
「……。落ちたら迷わず呼ぶのじゃぞ?」
「大丈夫。落ちないように気をつけるから」
 
みおの答えに頷いた『神様』は「ではの」と背を向け、泉に歩み寄る。
 
「え!? 今行くの?」
「今行ってはならぬか?」
 
肩越しに振り返る璃卯は、訝るように目をすがめた。その後ろ髪を束ねるのは、みおがいつか贈った浅葱色の結い紐だ。
 
「う、ううん」
「行ってくる」
「うん」
 
地面に踏み出すのと同じような軽やかさで、水面に踏み出して行こうとした璃卯の袖を、つい掴んでひいた。
半月などすぐだ。そう自分に言い聞かせてみるのに、どことも知れない彼方に璃卯が行ってしまうのが不安で仕方ないのだ。
 
「なんじゃ?」
 
思わず掴んでしまった袖を離して視線を泳がし、言い訳を見つけられなかったみおは「ごめん、なんでもない」と俯いた。
 
「すぐに戻る」
「うん」
 
顔をあげてもう一度璃卯の顔を見たら、泣いてしまいそうな気がする。そんなことで泣けば、呆れられてしまうかもしれない。
顔をあげられずにいるみおを、涼やかな匂いがそっと包んだ。
抱きしめられている。
そう気づいたのと、頭に手を添えられて、彼の肩口にきゅっと押しつけられたのとは同時だった。
 
「すぐ戻る。必ずじゃ。待っておればよい」
 
璃卯の声が、衣ごしに直接響いた。状況を認識したみおの心臓が、全速力で駆けだす。
 
「では、行ってくる」
 
身を離した璃卯は柔らかに微笑うと、音もたてずに水に飛び込んだ。虹色の鱗の輝きはすぐに水底へと沈んでいき、残されたのは耳元に響く拍動と蝉の声ばかりだった。

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