平日のバイトの帰りは通勤ラッシュにはまだ早い時間で、駅の構内も電車の中も比較的すいていることが多い。けれどその日は沿線で事故があったとかでホームは人でごった返していた。
ダイヤが乱れなかなか来ない電車に、時折舌打ちなども聞こえてくる。他人の苛々が嫌な気持ちとなって浸食してくるような不快さをやり過ごすように、ゆるゆると息を吐き出した。こんなことならバイト先でひと休みしてから出てくればよかったと後悔しつつも、電車は遅れているだけで止まっているわけでもないから引き返す気にもならない。
スマートフォンの画面に視線を落としてみてもなんの通知も表示されておらず、再びひっそりとため息を落とす。この時間に連絡がないなら、今日も川村さんから誘いがかかることも、仕事帰りにうちに顔を出すということはないだろう。これが一般企業に勤める会社員ならば、残業を加味してもそこそこの時間で仕事も終わるだろうし、お茶でもして待ちながら合流するなんていう選択肢もあるのかもしれないけれど、相手が彼ではそうもいかない。
川村さんの仕事は、時間も勤務地も不規則だ。例えば誰かの警護となればその人に合わせて行動し、時には泊まりという場合もあるそうだ。
もっともそれは、言われたことを全部そのまま信じるのであればの話だけれど。
彼と水族館でデートしたのは、もう三ヶ月以上前のことだ。
あの日、言うつもりもなかった想いを彼に伝えてしまった。なんとなく、あれを逃したらもう伝える機会がないままに終わるような気がしたからだ。実際その勘は当たらずとも遠からずだったようで、あれ以降、彼からの連絡は減り、顔を合わせることも半分以下となった。
バレンタインから数えてざっと七ヶ月あまり。私から聞き出せる情報も、周囲を探ってみてもあやしいものは見つけられなかったはずだし、騙しても大した貯金がないこともわかっただろう。
いい大人がおつきあいをしてキスどまりにしてくれただけ良心的だと思うべきか、いっそヤルことをヤってしまった方がいい思い出にして終われるのか。正直なところよくわからない。でもどうせ終わらせるなら、フェイドアウトではなく、息の根を止めるように手酷く終わらせて欲しいとは思っていた。
それがまさか、うっかり人生まで終わってしまいそうになるなんて、さすがの私も考えてはいなかった。
いつの間にか押し出されたホームの端。偶然か、それとも悪意だったのか。電車が来たなと思った瞬間、私の体はホームから押し出された。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
瀬谷透子が線路へと転落した件を把握できたのは、発生から五時間も後のこと。彼女の収容された病院を訪れることが出来たのはそれから更に二時間以上後、日付も変わろうという深夜になってからのことだった。
彼女は捜査対象からはずしていいだろうという判断のもと、透子の部屋に設置していた盗聴器具などの全ては先日撤収を済ませ、監視そのものをしていなかったことが仇となった。
非常灯とナースステーションから漏れる明かりがあるだけの薄暗い廊下。寝静まっているであろう入院患者の眠りを妨げることのないよう気を配りつつも早足で歩きながら、先程病院前で落ち合った部下とのやり取りを思い返す。
「容態は?」
「右側頭部打撲、右前腕部に擦過傷。それ以外にも落下した時に複数箇所の打撲、左手首には捻挫も見られるとのことですが、幸い骨折はないようです」
「意識は戻ったのか?」
当初の報告では、意識不明とのことだった。ホームからの転落であれば相応の高さもあり、電車に轢かれずとも打ち所が悪ければ命にも関わる。別件の検挙にあたり現場の陣頭指揮を任されていた手前、すぐに駆けつけることもかなわなかった挙げ句、未だ十分な状況把握も出来てはいなかった。
「はい。現状目立った所見はなさそうですが、頭部を打ち付けていますので明日いっぱいは検査と経過観察、何事もなければ明後日に退院予定とのことでした。目が覚めた時には記憶の混濁が見られたようですが」
「記憶の混濁?」
「はい。今はいつか、自分の名前はなんだったかと尋ねたようです」
「記憶喪失ということか」
「最初はそこを疑われたようですが、すぐに自分がバイト帰りだったことを思い出したようで、帰り損ねたと落ち込んでいたようです。……今日、あのドラマの日でしたからね」
この件にあたっていた誰もが彼女が好んで観ているテレビドラマの放映日を覚えてしまうほどに見張り続けていたというのに、監視を完全にはずしかけたこのタイミングでこんなことが起きるとは、と苦々しく思ったのは自分だけではないだろう。
彼女はいつも通りに定時にはバイトを終え、店を出たという。沿線の事故により電車が遅れていたもののホームで電車を待ち、線路に転落した。
先に発生していた事故の影響でホームには人がごった返していたようだが、突き落とされたのか、人波に押し出されての転落だったかは未だ不明だ。ただ、ホームの端へと押され、よろめいてそのまま足を踏み外しているのは防犯カメラによる映像からも明らかだという。
転落して以降の目撃証言はそれなりにあり、倒れ伏したまま動かなかった彼女を助けにすぐに線路に飛び降りた男性がいたらしい。減速していたとはいえ電車が迫っていた為か、男は彼女を引き上げるのでなく、ぎりぎり轢かれずに済む反対側の線路寄りに移動させたのを運転士も含めた多くの者が目撃していた。しかし、その後の状況は防犯カメラにも映像として残っておらず、救助にあたった功労者はどこかに立ち去ってしまったらしい。
「わかった。今夜はこのまま直帰しろ。後は僕が付き添う。明朝、東をこちらに寄越してくれ」
労うように軽く肩を叩き、そのまま立ち去ろうとすると「もうひとつ大事なご報告が」と呼び止められる。
「治療にあたった医師によると、彼女の体に銃創痕と思われるものがあるとのことでした」
眉を寄せ、報告した部下の顔を注視する。それを口にする男の表情にも困惑が見て取れた。彼女とは恋人とはいえ肉体関係にはなっておらず、寝耳に水の話だ。
「銃創? 彼女にか?」
「はい。左上腕部と右大腿部の二カ所だそうです」
「銃創で間違いない、と?」
「恐らくは、とのことでした」
恐らくとしか言えない程度には経年している。それならばここ一、二年という痕ではないのだろう。
「具体的な時期の特定は……無理だろうな」
「そうですね。ただ、どちらも貫通銃創で、発生当時は命に関わる重篤な状況に陥った可能性が高いとの見立てでした」
彼女の経歴に日本から出た記録は見当たらない。そしてこの国で一般人が銃による怪我を負うなんてことは起きないのが普通だ。そんなことが起きれば、事件にしろ事故にしろ警察が介入するのは間違いなく、調べた限り過去彼女にそのようなことはなかった。明るみになっていない事件に巻き込まれたか、それともこちらで収集しきれていない情報があるのか。
彼女には何かある。何かが引っかかるのに、それが何だかわからない。そんな状況のまま今日まで来た。対象を長期に渡って監視することはあるが、それにしてもここまで接近した上で半年以上もほぼ二十四時間の行動を調べ続けるということはそうあることではない。
状況だけでいえば、三ヶ月も待たずに彼女も瀬野千彰同様対象からはずし、他の手がかりをあたるべきところ、それをしなかった理由は二つ。他に有力な手がかりを得られなかったこと、それから彼女自身の言動にどこか腑に落ちない点があったからに他ならない。
例えば、外で偶然会った時の態度。瀬谷透子は多少反応を示したものの、他人のような振る舞いで通り過ぎた。まだ恋人になっていたわけでもなく、その態度自体、異性と歩いているのを見かけてしまった知人という立ち位置では普通の振る舞いだったかもしれない。それについて、改めて事情を話し、今後外で会っても他人のフリをして欲しいと伝えた時も、あっさりと了承された。物わかりのよさが気になりはしたが、それ自体も特段問題視するほどのこともない。”川村啓士”が不実な男である可能性を考慮した、深入りを避けた賢明な応対だったともとれる。
問題は彼女がそれをあまりに自然に実践して見せたことだ。その後、二回、偶然を装って外で彼女と会ってみた。『他人のフリをしなくてはいけない』という気負いはどこかしら不自然な態度となって顕れる。それなのに彼女はそんな素振りを見せず、こちらから話しかけても、初対面を装うべきか、それともいつものように話していいのかを見極めようとするし、どちらともつかないように接すればそれに応じた対応をして見せたのだ。まるで過去にもそういう態度を求められたことがあるのではないかと思えるほど自然なそれに、仮に彼女が犯人と接触することがあっても、素知らぬ顔で通り過ぎて見せることも容易いのではと思われた。
そして、もうひとつ。一般的な二十代の女性と比較して、彼女の行動範囲が随分と狭く、交友関係が希薄過ぎたことだ。しかしそれも、彼女が単にそういう気質なのだろうと判断した。彼女は誰に依存せずとも、自分の時間を丁寧に生きて、楽しんで、ひとりでも幸せになるすべを知っている。ひとりでばかり過ごすことを外聞が悪いなどと考えることもない。
そういった希薄さは恋人に対しても変わらず、彼女がメッセージアプリで連絡してくることは稀で、それに対する返信がどれほど遅くとも、拗ねるでなく文句を言うでなく、たださらりと『忙しくて大変ですね』と労われるばかりだった。こちらからは盗聴や盗撮により彼女の行動を把握しているが、彼女にしてみればどうだろう。仮にも恋人なのだから、もう少しくらい気に掛けるとか、相手の愛情を疑ってもいいのではないかと物足りなさを感じる自分に気づき、内心苦笑を溢したこともある。所詮、嘘で塗り固めた関係だ。明らかに犯罪を犯していると言い切れる確証はなく、夢中にさせて引き出さなければならない情報があるわけでもない。そんな相手に、手酷く傷が残るような熱情を向けられるのは厄介なばかりのはずなのに。実際、彼女への捜査を打ち切り、このままフェイドアウトして関係を自然消滅させ、何も知られることなく彼女を日常へと返す、彼女との関係はそれで終わると思っていた矢先のこの事故だ。
偶然か。それとも命を狙われたのか。狙われたのだとしたら、誰に、なんの為に。それだけではない。あの平凡で単調な日々を送る彼女がいつ銃による怪我など負ったのか。いつ。どこで。そして、その記録がどうして彼女の経歴を洗う中で発覚しなかったのか。
調べた経歴に間違いがないとすれば、高校進学前の空白の一年をより詳しく調べてみる必要がありそうだ。本人に、何をしていたのかと訊いてみたことがあるが、自分探しですかねと能天気な笑みが返った。多感な時期に両親が他界したことを思えば、心の整理が必要だったのだろうと受け止めたし、従兄宅に引き取られてそこで高校卒業まで過ごしていた、その記録に不審な点は何もなかった。
正面から問い詰めたところで、まともな答えが得られるとも思えない。その程度のことならば、きっと公的な記録のどこかに残っているはずなのだ。
「一からか……」
独りごちて、彼女の病室の前で足を止める。
転落について防犯カメラの映像のチェック、目撃者探し。それに加えて、彼女の経歴を再度最初から洗い直し、通院履歴なども確認する必要がある。頭の中で忙しく明日以降の段取りをしながら、ノックもせずに扉を開く。この時間ならば起きているはずもない。そう思ってのことだったのに、彼女は慌てて身を起こした。
「ぁ……」
つけたままにしていたらしいベッドの脇に設えられた読書灯の明かり。淡く影を落とすオレンジ色の中に、力なく息を吐く姿が映し出される。
全てが後手にまわった苛立ちと、組み立てかけた今後の段取りを急いで頭の片隅へと押しやり、恋人の顔を貼り付ける。
「ごめん。起こしたかな」
「いえ……」
彼女は病院の検査着姿だった。転落時に身につけていた服は血などで汚れたこともあり処置時に脱がされ、そのまま警察で押収されている。通常こんな時には家族に連絡して着替えを持って来て貰うことが普通だが、彼女の近しい身内である瀬野千彰は現在国内にいない為、それをしてくれる親族もいない。
十月ともなれば夜はやや冷える。病院内は空調がきいているとはいえ、薄い検査着一枚というのは心許ない。また、袖から覗く腕には包帯が巻かれ、その痛々しさも相俟って尚更寒そうに見えた。
「寒くない?」
着ている上着を着せかけてやりたいところだが、現場から直行して来た為、綺麗ともいえない状況だ。せめてもと掛け布団を少し引き上げて、身を起こした彼女のお腹のあたりを包んでやると「ありがとうございます」と返った。
「……なんで、ここが?」
「スマホにメッセージを送ったんだけど、いつまでも既読にならなかったから心配になって。仕事柄、警察にちょっとした伝手があってね。それで聞いて来たんだ」
手近にあった見舞客用の椅子を引き寄せて腰を下ろし、半分だけ本当のことを口にする。彼女の所在がわからないことに気付いたのは、偶然だった。ここ最近ろくに連絡をしていなかったから、ほんの少し手が空いたタイミングで他愛のないメッセージを送った。が、一向に既読にならない。風呂にでも入っているのかと思ったが、念の為と彼女のスマートフォンに仕込んだGPSを調べたが何の表示も出ない。電源を切っているか、なんらかの破損が考えられたがどうにも胸騒ぎがして東へと連絡をして、今に至る。
搬送された彼女の所持品にスマートフォンはなく、現場でも見つかっていない為、何者かに持ち去られた可能性が高いとして、その電源が入った瞬間速やかに位置情報を把握出来るよう準備だけはしてある状態だ。
「警察……」
「うん」
まともに顔を合わせて話すのは、およそ一ヶ月半ぶりだろうか。水族館で告白までさせておきながら、それ以降、恋人としては随分と薄情な日々だった。何度かドライブに誘ったり食事を共にする程度のことはあったものの、あんな風に丸一日一緒にいるなどということもなく、電話やメールをすることもほとんどなかった。RFT絡みの捜査にかなりの時間をとられ、そちらの方が難航していたから。というのも言い訳で、もう終わらせるという方向性がある程度定まっていたというのが大きい。実際こんなことがなければ、もう会うことはなかったかもしれない。
常ならばくるくるとよく変わる表情豊かな瞳は、今はただ疲れたように伏せがちでこちらに向けられることはなかった。
もしもまだ彼女が監視対象からはずれていなければもっと早く駆けつけてやれただろうか。駆けつけるどころか、バイトが終わる頃を見計らってメッセージを送り、車で迎えに行っていたなら、こんな怪我をさせることすらなかったかもしれない。
考えかけて、詮無い仮定だとすぐに打ち消した。
「忙しいのに、こんなことで……すみません」
「こんなことじゃないよ。大事にならなくてよかったけど」
手前にあった、捻挫しているという左手にそっと掌を載せ、そのまま指先を絡める。細く冷たい指が少し震えているようで、労るように包み込んだ。
この腕に、銃創がある。着物の袖のようにゆったりとしたこれをめくりあげれば、すぐに見える場所にあるのだろうか。もっとも、今すべきはそんなことではなかった。
「痛む?」
「……大丈夫です」
いつもならこんな風に手を取れば少しは照れた顔を見せるけれど、さすがにそれどころではないのか、こちらを見ることもない。どこか頑なに見える彼女を刺激しないように、柔らかな声音で語りかけた。
「大丈夫でもないって聞いてるんだけど。今は薬で痛みが和らいでいるかもしれないけれど、眠った方がいい」
緩慢にこちらに目線が向く。頼りない視線で、何かを言いかけた唇はそのまま噤まれて、再び視線は彼女の膝へと帰って行った。
「どうかした?」
「なんでも、ないです」
「眠れそうにないなら看護師さんに言って薬を貰おうか。今は無理にでも寝た方がいい」
バイトで疲れていたはずの帰り道にこんなことになり、治療の後には聴取が行われたはずだ。彼女自身状況が飲み込めていないであろうままに、既に深夜だ。張り詰めた緊張感が眠りを妨げているのだとしても、心身共に限界を越えているに違いない。
「やです」
「やって……」
「寝たく、ないです。薬で寝てしまったら、何かあっても目が覚めないじゃないですか」
「何かって?」
「……」
「誰かが君を殺しにくる、とか?」
彼女の視線はそのままだったものの、掌の中の冷たい指先にはきゅっと力が籠もった。図星だったらしい。
「透子さんは、これが単なる事故じゃないって思ってるんだね」
「……」
「警察の方もね、まだ判断がついてないらしい。事故なのか、事件なのか……君を助けた男性も現場を立ち去ってしまってね。目撃者の証言を整理しながら、あちこちの防犯カメラをあたっているようだよ」
先に所轄の方で簡単な聴取が行われたようだが、詳細な確認は明日行われるらしい。様子次第では、案件ごとこちらに引き取ることになるだろう。
「心あたり、ある?」
「殺されそうな、ですか?」
口の端を引き上げるだけの自嘲するような笑み。半年以上も彼女と接していた中で、こんな昏い顔を見るのは初めてのことだった。
「まあ、これが事件ならそういうことになるね」
彼女は人に恨みを買うようなタイプだとは思えない。しかし、恨む人間はその人となりなどお構いなしに己の都合を振りまわすような輩も多い。被害者の人間性に連動するとは限らないのだ。
「ないと、思います。思いたい、です。……誰かが私に死んで欲しいって思ってるってことですよね」
蒼白の顔をますます蒼くして、噛みしめるように呟く視線は虚空へと向けられている。
「そうとも言い切れないよ。単なる事故だったかもしれない」
「そう、そうかも、しれないけど……気付いたら痛くて……電車がすぐ近くで……」
「うん」
弱々しい声は、何かを堪えるように震え、ぽつぽつと言葉を落とす。
「電車、轢かれちゃうって……」
最初に吐き出させてやるべきだった。気に掛かることだらけで、つい訊きたい気持ちを優先してしまったが、彼女はほんの数時間前に死にそうな目に遭ったばかりだ。日頃からそういうものと隣り合わせに居る自分なんかとは違う。突然心臓を鷲掴みされ、握りつぶされそうなほどの恐怖だったろう。眠気が訪れるどころか、ひとり残された病室で、扉が開く音に飛び起きるほどに気を張ったまま、その恐怖を反芻し続けていたに違いない。
「痛くて……でも体が動かなくて、死んじゃうって……」
「うん」
「動けなくて……そのまま何もわからなくなって……」
「怖かったね。君が無事で本当によかった」
椅子から立ち上がり、彼女に寄り添うようにベッドの端に腰を下ろす。俯く彼女の肢体のどこに痛みがあるのかわからない。だから慎重に肩に手を回し、そのままそっと抱き寄せる。素直に肩口に額を預けた彼女は、ふと思い出したように「あ、私お風呂入ってないので汚いです。触らない方が……」などと口にして思わず固まり、次の瞬間笑いが漏れた。
「この状況で、そこかい?」
「だって」
確かに風呂に入ってもいない女に触れるなんて冗談じゃない。でも、少なくとも彼女にそういう振る舞いをして見せたことはないし、除菌スプレーをしてない座布団でも勧められれば腰を下ろして見せてきた。プライベートならばいざ知らず、業務においては不本意ながらもそういうものは二の次にしている。だいたい、どう考えても、今はそんなことを考える状況ではない。
ほんの少し前まで、震えていたくせに、やけに冷静な発言のギャップが可笑しかった。思えば彼女のこういうタチが好ましく、一緒に居ると愉しくて。だからこそ、つまらない心の傷を残すことなく、終わらせてやりたいと思っていたのに。
「明日の検査が終わるまでは、お風呂はおあずけだと思うよ? まあ何もなければ明後日には退院できるそうだから、最悪そこまでの我慢だ」
調子を取り戻したらしい彼女は、明後日……と呟いて口を尖らせている。この様子なら、薬はなくとも眠るくらいは出来そうに思えた。
「ほら、怪我人は寝ないと」
手を離して促すと、渋々といった顔で布団に寝そべる。あちこち痛みがあるのか、慎重に身を横たえるのを待って、布団を首元まで引き上げやる。
「眠っても大丈夫。今日はもう全部片付けてきたから、起きるまで僕がここについてるよ」
顔にかかった前髪を軽くはらってやりながら告げると、安堵したように息をついた彼女が「なら、安心ですね」と呟いた。
訊きたいことなら山ほどある。心当たりはあるか、犯人の顔を見たのか、助けてくれた男に覚えはないのか。銃で、撃たれたことはあるか、と。
すべてが後手にまわった失態に苛立がふつふつと沸き上がるが、優先すべきは彼女の休息だ。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
瞼を下ろした彼女は、朝までに何度かびくりと体を弾ませて目を覚ましたものの、こちらに視線を向けると再び安心したように眠りに落ちて行く。そんな全幅の信頼が、ほんの少し後ろめたく思えた。