川村さんの提案──水族館か、遊園地か、というのが実現したのは、梅雨真っ盛りのことだった。
彼がそれを言い出したのは三月。あれから約三ヶ月が経過していた。
多少休みの曜日が変動することはあっても、決まった休日以外規則正しく出勤して帰宅する私とは違い、彼の業務時間は変則な上、週に一度の休みすらもないようで、いざ休みを合わせて出掛けようにも案外予定が立たなかったせいだ。何度か約束はしたものの、ドタキャンを繰り返し、今日も実際に顔を合わせるまではまた予定が流れるのではと疑ってかかっていたのは川村さんには内緒だ。
だからといって全然会えていなかったかといえばそうでもなく、時折仕事帰りに迎えに来てくれて夕食と短時間のドライブなどを楽しんだりはしていた。ひどく疲れた顔で、目の下にクマがあることもあったので、そんな日は具合が悪いと嘘をついて家に送って貰うだけで解散なんてこともあったけれど、何度か繰り返すうちに嘘だとバレてしまった。
「君といる方が疲れがとれるから、食事くらいは付き合ってくれないか?」なんて言われてしまうと、本当は一緒にいられるのが嬉しい身としても強くは出られず、せめてもと近場のお店やすぐに食べられそうなものをリクエストしてみるなんてことも繰り返した。ただ、そこのファミレスに、と言ったところで笑顔で却下され、食べたいものにあわせて彼おすすめのお店まで強制連行となるのが毎度のことだった。
あまりにそんな時間が積み重なっていくものだから、もしかしたら川村さんは女も恋愛対象になるのでは? なんていう考えが頭をもたげた。そしてそのたびに、あの日、不快そうに唇を拭っていた彼の姿が脳裏を過ぎり、仕込まれたアプリに現実に引き戻されることを繰り返した。
彼が、もしくは彼らがいくら私を見張っても、このアプリを介している限り、きっと何も見つからない。もしも目的が三月ウサギなのだとしたら、尚更私の動向を注視し続けるなんて見当違いもいいとこだ。もっとも、彼らの目的が”アリス”だというなら話は別なのだけれど、それならばちーちゃんがこの状況を放って置くとも考えられない。
なんの指示もないから、私は宙ぶらりんな気持ちを持て余しながらもこうして助手席におさまっている。
「着いたよ。……酔った? もしかして体調悪いのかな?」
「いえ、それは全然。すみません、ちょっとボーっとしちゃいました」
「途中ちょっと眠そうだったよね。寝るかなと思ってあまり話しかけなかったんだけど」
バレていたらしい。実は車に長い時間乗ると眠くなる。元々そういうクセというか体質というかがあったのだけれど、ちーちゃんに引き取られた後は眠れなかった私を寝かしつけるべく彼はドライブを繰り返した。その習慣も相まって、長い時間車の規則的な振動に揺られていると猛烈に眠くなる。さすがに川村さんとのドライブは緊張感の為か眠くなることはこれまでなかったのだけれど、今日はいつもよりも長時間だったせいか、高速道路に乗ってしばらくしてから、何度かやばいと思う瞬間はあった。
「一応デートなのに悪いかなって」
シートベルトをはずして車外へと降りる。軽く伸びをして、水族館に隣接した駐車場から見える海へと視線をやる。どんよりとした空を映す水面は暗く濁って見えた。とはいえ梅雨なのだから降っていないだけマシというものだろう。
「よかった」
車を降りて回り込んできた川村さんが、にこりと笑う。
黒のVネックから覗く鎖骨に目がいって、なんとなく視線を逸らしながら「確かに。降らなくてよかったですね」と答えた。
「いや、天気もそうだけど。そうじゃなくて、一応でもデートって認識してくれてたことが」
しまった、と思う。この服装で、デート発言はさすがにないだろう。彼だってそう思ったから、デートと認識していないと思ったに違いない。
本当は、先日買ったワンピースを着ようかと昨日の夜から悩んだ。シフォン生地に小花柄のそれは一目惚れして買ったというのに、試着以来一度も袖を通す機会がなかったものだ。散々考えて、以前彼と一緒にいた女性ほど女としての魅力もない自分が女らしい格好をするよりは、いっそ中性的な服装の方がいいだろうと決めてボーダーのシャツとデニムにした。だから靴も、お出かけ用ではあるもののスニーカーをセレクトした。結果、普段の通勤着と大差ない服装となった。
「言葉のアヤです」
「ふうん。じゃあ、はい」
差し出された手をまじまじと見つめる。これはまさか。
「デートだから手は繋がないと」
「友達とは手は繋がないです」
「友達でもいいから、今日はデート。ほら、行くよ」
そう言って、勝手に手を取り歩き出す。食事の時などふとした折に手を掴まれたり、揶揄うように指先に触れることはあったけれど、こんな風に繋いで歩くのは初めてだった。
手汗をかきそうで、そっとほどこうとしたのにすかさず指を絡めてほどけなくされてしまう。肩越しに振り返った彼は、してやったりとでも言うようににやりと笑うと、再び前を向いて歩き出した。
◇ ◇ ◇
ようやく取引の隠れ蓑と思われるパーティの日時を聞き出すに到り、ウサギの捕獲と並行して取り組んできた大きな山が、これで一気に前進するかと班が浮き足だった矢先、情報源である女が失踪した。瀬谷透子に一緒にいたところを見られたあの女だ。当初は愛人の男に監禁されたか消されたかの線を疑ったが、問題の男も共に行方をくらましてしまい真相は不明だ。潜入する予定だったパーティも立ち消えとなり、またあの組織へと繋がる糸口から探すべく捜査はふりだしに戻った。
ただひとつ、その組織は裏社会でもどこか都市伝説のように語られ、RFT──
これまでも、あと一歩でその組織へと接触できそうな機会があった。二年前、潜入していたある宗教施設。あの団体は、恐らくはその末端にあたる連中だったはずなのだ。足がかりになるはずだったものは、ウサギのせいで証拠もろとも吹き飛び、検挙へと繋げることが出来なかった。
あの時のウサギの動きは、場当たり的な愉快犯的犯行だったのか。それとも証拠隠滅の為、あの団体ごと切り捨てたのかは定かではない。しかし、今回判明した
そのウサギは、相変わらず気まぐれにサーバーに潜入して情報を盗み出してみたり、セキュリティーの穴を指摘するホワイトハッカーの真似事などもしながらのらりくらりとこちらの追跡を躱し続けていた。そちらはサイバー課をメインに解析を続けているが、あまり芳しい結果は得られていない。その間も瀬谷透子には目立った動きはなく、彼女自身が三月ウサギであるという疑いだけはどうやら捨ててよさそうだというのが現状の見解だった。
残るは彼女の知人などがウサギかそれに連なる者なのではないかという線だが、それらしい影は見当たらないままで、結果、彼女への接触による捜査は優先度が下がり、約束したデートも随分と後回しになってしまった。
優先度が下がっただけで切ると決定したわけでもない以上、口説き続けるという態は保たねばならない。そのために、メッセージアプリで他愛もない会話をしたり、隙間の時間を見つけては彼女を食事に誘うことは継続していた。
迎えに行くと、緩みかけた表情を引き締めて口を引き結ぶ天邪鬼な態度はいっそ微笑ましく見えた。しかし、ある時、こちらの姿を見つけるや申し訳なさそうに目を伏せて「今日は風邪気味なので食事は無理そうです」と遠慮がちに告げられた。あれは三日ほど徹夜をした後のことだったか。その日は、大丈夫だという彼女の言葉を信じ、マンションの前まで送るだけに留めた。そんなことが二度、三度。これは少しずつ遠ざけられているのではないかと疑い始めた矢先。
「川村さんも、早く帰って寝た方がいいですよ」
別れ際の気遣わしげな態度と己の状況に、遠ざけるのでなく休ませてくれようとする優しさなのだと気付いた。
「君といる方が疲れがとれるから、食事くらいは付き合ってくれないか?」
思わず口をついた言葉は、本心だった。熱いものを一生懸命冷ましては、幸せそうに食べる。そんな彼女との食事は、殺伐とする生活の潤いになりつつあった。同時に表面上口説いておきながら、デートに連れ出すことすらままならない上、ドタキャンを繰り返す男など、友達というラインすら大概危ういのではないかと感じていた。
「着いたよ」
外を見ていれば着いたこともわかるはずなのに、助手席の彼女は相変わらず窓の外に視線をやったままだった。
「酔った? もしかして体調悪いのかな?」
「いえ、それは全然。すみません、ちょっとボーっとしちゃいました」
「途中ちょっと眠そうだったよね。寝るかなと思ってあまり話しかけなかったんだけど」
高速を走り始めてしばらくしてから、彼女の反応が少し鈍くなった。わずかに舌足らずな言葉遣いで、ミラー越しに窺えば目はとろりとしている。いかにも眠そうな顔だった。話しかけるのを控えていれば寝そうな様子で、それならそれでも構わないかと思っていたが眠り込むことはないままに到着した。
「一応はデートなのに悪いかなって」
寝そうだったことを指摘されたからか。それとも、デートという発言に対してか。はにかみながら、そそくさとシートベルトをはずし、車外へと降りてしまう。
今朝、マンションの前に降りてきた彼女に、少しだけがっかりした。突然の夕食の誘いなどではなく、前もって決めておいた遠出の約束。それなのに、彼女の出で立ちはまるでそのままバイトに出掛けていくような様子だった。多少なりとも彼女の気持ちがこちらに傾いているならば、いつもよりも着飾った姿が見られそうなものだが、相変わらず友達の範疇は抜けだしていないらしい。そう判断した。それなのに。
なんとなく頬が緩む。同時に、少しだけ揶揄いたくなる衝動にも駆られた。
「よかった」
「確かに。降らなくてよかったです」
車を降り、助手席のドアにの前で海の方を見つめる彼女の方へと回り込む。いつ降り出してもおかしくない沈んだ色が視界いっぱいに広がっている。そんな鈍色に反し、気分は明るく浮き立つ。
「いや、天気もそうだけど。そうじゃなくて、一応でもデートって認識してくれてたことが」
言われて初めて気付いたとでも言うように、一瞬息を詰めた彼女は「言葉のアヤです」と早口で言い切る。言動とは裏腹に、頬には赤みがさしているのを喉の奥で密やかに笑う。
「ふうん。じゃあ、はい」
左手を差し出すと、掌を見て、顔を見て、再び掌へと視線が落ちていく。どう見てもわかっているようだけれど、ここはひとつ押してみる。
「デートだから手は繋がないと」
「友達とは手は繋ぎません」
ぷいと横をすり抜けていきそうな気まぐれ猫の手を捉え、そのまま繋いでしまう。
「友達でもいいから、今日はデート。ほら、行くよ」
そろりとほどきにかかる気配を感じ、指を絡めてほどけないようにきゅっと握る。どうだと窺うように振り返ると、物言いたげな瞳でこちらを見た後、諦めたように逸らされたものの、繋いだ手はそのままだった。
プライベートで水族館に来るなんて、随分久しぶりのことだ。
自撮りするカップルを横目に、そういえば最後に来たのは学生の頃のデートだったかもしれないなどと思い出す。何枚も撮られた写真は、もう全部削除してくれただろうか。そんなことを思いかけてはたと気付く。彼女は食事に行っても、こうして出掛けても、それを写真におさめるということをしない。食事中に食べ物を撮るのに否やを唱えるつもりはないが、捜査の一貫で付き合う相手に写真を撮られるのはなるべく避けておきたい。だからいつもは何かと理由をつけて避けるか、撮られてしまったものをあとからこっそり削除するなどという手間があるのが常だが、こと瀬谷透子との関係ではその必要がなかった。
「撮る? 写真」
水族館のスタッフが、専用の背景セットの前で「手持ちのカメラやスマホでもお撮りしますよ~」と通りがかる客に声を掛けている。
撮りたくはないが、どんな反応を示すのかと思い尋ねてみると、彼女はただ「いいです。それよりせっかくだから見ましょう」と首を振った。撮られたくない理由でもあるのだろうかと、試しに彼女に向けてスマホをかざしてみる。
「私なんかより、魚の写真でも撮った方が癒やしになりますよ」
照れ隠しに唇を尖らせて言いつつも、撮らせないわけでもない。そのままシャッターを切れば「ホントに撮った……」と目を丸くした。
「君の写真が一枚もないことに今更気付いたからね。あとで笑った顔も撮りたいな。……甘い物でも食べる?」
「もぉ、川村さん。私に甘い物を食べさせておけば、にこにこ機嫌よくしてると思ってませんか?」
「違う?」
「……ちがいませんけど」
クスクスと笑いながら、手を繋ぎ水槽の前を移動していく。
擬似的な海を前に、恋人を装う。どちらがより偽物だろうか。偽りの狭い海に閉じ込めて、外敵から襲われる心配もない空間。気付かなければ、閉じ込められているなどと感じることもないそこも楽園になり得るんだろうか。
ふと水槽の硝子ごしに合った目は、またしてもすぐに逸らされてしまった。
コミカルなアシカショーには無邪気に笑い、イルカショーでは派手な水しぶきをあげてジャンプを繰り返す様に子どものように手を叩いていた。はしゃぐ彼女がこの日一番お気に召したのは、ウミガメのようだった。
硝子に額をつけそうなほどに顔を寄せ、こちらを見ながら泳ぐ亀の鼻先をつつくようにして水槽に触れる。人の流れが二回ほど入れ替わる間もその体勢のままだ。
「……竜宮城って、あると思いますか?」
「どうだろう。試しにここから亀を助け出してみようか」
「いいですね。そしたら案内してくれるかな」
くすくすと声をたてて笑う様が可愛らしい。こんな彼女が、本当にウサギに関わっているんだろうか。もちろん犯罪者と知らずに関わっている可能性もあるし、何かで利用されていることも考えられる。そうだとしたら、彼女もまた被害者にすぎない。
「行ってみたい? 竜宮城」
軽口の延長で言った言葉に「帰ってこられるなら」とぽつりと返る。寂しげに聞こえた気がして急いで表情を窺い見ても、彼女は相変わらず目を細め、亀のいる硝子を軽く指先で叩いていた。
そんな様子だったから、帰りに寄ったお土産コーナーで、大きな亀のぬいぐるみの前で彼女が足を止めたのは必然だったかもしれない。可愛らしいアザラシやペンギン、イルカのそれには目もくれない。リアルに再現されているとぼけた顔が山のように積み重なる前で、彼女はうーんと小さく呻いた。
「緑の甲羅のと茶色の甲羅の二バージョンか……透子さんはどっちが好き?」
「そうですねぇ。茶色の方が今日見たのに近くて好きかな……ってちょっと待ってください」
彼女にはひと抱えありそうな大きさのひとつを持ち上げて、そのままレジへと進もうとすると制止の声がかかった。
「買うんですか? それ」
「うん。イルカやペンギンがいいかと思ったけど、透子さんはウミガメ派みたいだから」
「なんですか、その派閥。っていうか、いいです、悪いです。自分で買うので」
買うつもりだったのならば尚更いい。あの殺風景とも言える部屋に、とぼけた顔のこの亀が鎮座するのは彼女の癒やしの足しになるだろうか。
用が済めば終わらせるのが決まっている関係に、残るものなんて渡さない方がいいのかもしれない。しかし、さっさと会計を済ませて差し出した紙袋を受け取る彼女はとても嬉しそうで、こんな顔が見られたのだからこれでよかったと判断した。
駐車場の向こう。防波堤に寄り添うカップルも点在するが、晴天で夕日が見られるとでもいうならいざ知らず、曇天の海を眺めるくらいならば彼女の好きそうな夕飯の食べられる店に向けて車を走らせたい。
先に彼女を車に乗せ、車外でスマホをチェックする。丸一日呼び出すことなく乗り切った部下を心の中で称賛しつつ、送られてきた案件の経過報告に目を通す。簡単に指示を出して、運転席に座ると、助手席の彼女は先ほどの亀を袋から出し、抱え持っていた。
ぬいぐるみどころか小物ひとつない部屋に住んでいる割に、案外こういうものが好きなんだろうか。微笑ましく見つめると「ありがとうございます。嬉しいです」と彼女もまた笑みを返した。
大事そうに抱え、時折指先で甲羅を撫でている。
「いいね。羨ましい」
「あ、川村さんも抱っこしてみますか? 肌触りいいですよ」
「いや、そっちじゃなくて」
小首を傾げた後、「抱っこされたいんですか?」と疑問符を浮かべて瞬きする。
「いや、抱っこする方がいい」
「じゃあ、ほら、どうぞ。カメ吉」
「カメ吉」
この僅かな隙に名前まで付いたらしい。それにしても、随分と直球のネーミングセンスだ。
「カメ太郎でもよかったんですけど」
「浦島太郎の続きかい? どっちにしろ雄なんだね。妬けるな」
「亀に?」
「亀にでも」
「だそうだよ、カメ雄くん」
そう言って、ちょんと亀の口先に唇を寄せた。更に新たな名前が登場したのは、この際どうでもいい。なんとなく甲羅をひっつかんでそのまま後部座席へと放り投げた。
「あ゛ぁぁぁっ、カメ吉っ」
「ほら、ちゃんとシートベルトをつけて」
促しながら自分もベルトをしめて、エンジンをかける。
「川村さんは自分が好きじゃなくても、相手は自分を見てないと気が済まないタイプです?」
大人げない行動をささやかに非難するように、彼女が唇を尖らせる。そこにかぶりついたなら、この子はどんな反応をするんだろうか。
「その仮定はおかしいよね。僕は君が好きなんだから」
「川村さんが、ですよね?」
「……? そうだよ? なに?」
確かに相変わらず”川村啓士”が一方的に口説いている状況だ。彼女も憎からず思ってくれていそうだと感じることもしばしばだが、所詮その程度に過ぎない。
「なんでもないでーす」
亀のことなど忘れたように、彼女はひとつ息を吐くと窓の向こうを見つめる。曇り空の下に広がる鈍色の波は光ひとつ映さない。
エンジンの音に紛れるように「すみません」と小さな声が響いた。
「貴重なお休みに、子どもっぽいとこに付き合わせて」
「水族館って普通にデートスポットだよね? それに、遊園地か水族館って言ったのは僕の方だよ」
「川村さんはデートで来たことは?」
「……あるよ。透子さんは?」
過去の女性との付き合いの話なんて、女に訊かれて答えるとろくなことにならない。やれやれと思いながら答えると、彼女はなぜか安堵の笑みを湛えた。
「私は高校生の時以来です。デートじゃないですけど」
「友達?」
「いえ、ちーちゃんの友達が遊びに連れ出してくれて」
「そう」
「よかったです。私ばっかり愉しくても悪いなと思ったし……川村さんも、ちゃんと愉しめる場所だったならよかった」
「僕は君と出かけるなら大抵の場所は楽しめると思うよ」
手を伸ばし、彼女の頬を撫でてみる。すべらかなそこは思ったよりも冷たくて、寒くないかと心配になった。
「寒い? 少しエアコン入れようか」
「……」
「どうかした?」
無言で眼差しをまっすぐ見つめ返す。
「私は、”あなた”が好きです」
あなたにやけに力を入れていた気がしつつ、予想外の告白に一拍反応が遅れた。その遅れに何を感じ取ったのか、彼女は再び「すみません」と呟いた。
「言える時に、言っておこうと思って」
耳まで真っ赤に染めつつ、視線は膝へと注がれている。
おとすつもりだったのだから、願ったりかなったりな状況だ。今日だって本当はイルカショーで濡れそうな場所に座って、一足飛びに躰の関係になってしまうことも算段した。あまりに無邪気に楽しそうにしていたから気がそがれたけれど、それでも捜査の進展上本当に必要だったならそういう手も使ったはずだ。現状彼女自身がそこまで重要な鍵を握っていそうにないのではないかという考えが大勢を占めていた、それだけのことだ。
「ありがとう。嬉しいよ。……僕も、君が好きだ」
「……」
「でも、言える時に言っておこうだなんて、まるでいなくなるような台詞だね」
「人間いつどうなるかわかりませんからね。私も、川村さんも」
やけに実感がこもって聞こえるのは、彼女が早くに両親を亡くしてるからだろうか。それとも。
「そこは同感だけど……そういうのフラグって言うんじゃないの?」
真意を探るように覗き込んだ瞳は、逃げるように逸らされてしまう。
「ですね。ほら、竜宮城に行っちゃうかもだし」
「その時は僕は亀を盗み出さないといけないね」
「そこは助け出すって言っておかないと。かたちだけでも」
「それもそうか」
互いにくすくすと笑いあって、ふと落ちてきた沈黙に自身のシートベルトはずして彼女の方へと身を乗り出す。
触れるだけのキスに、一瞬泣きそうに顔をゆがめた彼女は「川村さんは二番目ですね。カメ吉の次」と言って笑みを作り「おなかがすいちゃいました」と色気のない申告をひとつ。
彼女とのデートらしいデートは、その一度きり。
夕飯のデザートが運ばれてきたタイミングで、緊急連絡が入った。
失踪していた例の男女らしき死体が見つかった。