第6章 枯れた花、咲いた花 4

黒板にイラストとひと言を書くのがここ最近の咲良の楽しみだ。
週に何日か書き換えればいいと言ってくれた美弥も、咲良が嬉々としてほぼ毎日取り組んでいるせいか、黒板をもう一つ買ってきて、「これで次の分を書いて準備しておきやすいでしょ」と笑っていた。

『雨でどんよりした気持ちを花で明るくしませんか』

『ミニひまわり入荷しました。フラワーアレンジを飾りませんか?』

そんな、看板らしい言葉にすべきだろうかと迷った。

けれど美弥に「お店の前を通る人に、さくちゃんが話しかけるような普通の言葉でいいよ」と言われ、咲良は思いつくままにメッセージを書いている。

近所の和菓子屋の団子がおいしくて『吉次堂さんのお団子がおいしかったです。……花より団子?』と書いた日には吉次堂の奥さんがみたらし団子を差し入れてくれた。
『雨は苦手ですが、雨音は好きです。』と書いたら、ボードを見た通りすがりの女子高生たちが「それな!」と言って通り過ぎた。
そこには、接客用に用意しておいたパウチカードを掲げる時のような気まずさや気後れはない。
ボードを目にする人も、ただ純粋に『言葉』に反応を返す。
ほとんどの人が一瞥もせず通り過ぎるけれど、歩調を緩めて眺めたり、見て笑みを浮かべたり、小さなリアクションを目にすることも多かった。
今日も常連の老婦人に、「ここを通る時のちょっとした楽しみなのよ」と言われ、咲良は胸の中がほこほこと温かくなった。

『言葉』が届く。それは確かな手応えだった。

他愛なくとも、伝えたい感情にカタチを与えたら、それはもう『言葉』だ。声でも、文字でも。
咲良は、筆談に引け目を感じていた自分を自覚する。同時に、気後れする必要なんてなかったのかもしれない、とも思った。

『いい天気! 久しぶりのお洗濯日和ですね』

黒板にチョークを走らせ、こんなとりとめない言葉をLynelリネルにもよく書いていたと思い返す。
いいねがつくと嬉しかった。
承認欲求などではなく、ただ、誰かとその瞬間の気持を共有できた気がしたからだ。
そのLynelリネルに、自身に向く刃が溢れたことは忘れられない。今でも思い返すと胸がチリチリする。 それでも、誰かに言葉が届く場所だったのも確かだった。

ゆるゆると息を吐く。そうして、広場に視線を投げる。
もうきっと来るはずもない人を、つい探してしまう。

咲良はそっと自身の喉を撫でると、再びチョークを動かした。
 

◇   ◇   ◇

リハビリに通い出して二週間あまり。
咲良の声は相変わらず喉の奥に縮こまったまま、出てくる様子はまったくない。
 
リハビリルームに足を踏み入れると、いつもと違い、中央の作業机の近くには、大きな笹が設えられていた。その横では、数人がぎこちない手つきで色とりどりの輪飾りを繋いでいる。七夕飾りを作っているのだろう。
『蒼い森』も明日の七夕に備えて、笹を入荷した。小さな子どものいる家族連れが買っていくことが多いけれど、店先に飾るからと買いに来る近所の店の人も多かった。

(今日出勤したら、私も七夕飾りを作ろ)
 
頭の片隅で仕事の段取りを考えながら、サーモンピンクのシューズに履き替える。
 
「ちょっと疲れてるかな?」
 
パーテーションスペースで腰をおろすと、恵は気遣わしげに口を開いた。
この二週間で、彼の口調も随分とくだけたものとなった。
咲良はすぐにスマホを取り出すと、《大丈夫です》と翳してみせる。

「そう? じゃあ今日は窓際でやろうか」

窓の向こうには、サルスベリが濃いピンクの花を咲かせている。どんよりとした曇り空でも、その彩りが少しだけ咲良の気持を上向かせた。

「ここに手をついて、お腹に力を入れて、両手でぐっと押して。1、2、3、4って数えるから、それに合わせて。声を出すための踏ん張りをする練習ね」

いくよ、というかけ声で始まったそれに、咲良は真面目に取り組んだ。同時に、こんなことで本当に声が出るようになるのかという不安が消えない。
毎日毎日、いくら撫でても労っても、咲良の喉は応えない。もう本当はすっかり壊れてしまっていて、治ることはないんじゃないかという気すらしてくる。

「はい、オーケー。じゃあ、次は……」

「ックシュン」

ふいにくしゃみが零れた。
恵が驚いたようにこちらを見つめ、ひとつ瞬きをする。
すぐに、すみません、と頭を下げようとすると、恵は「いい声! 出たね、声」と笑みを深めた。

声は出ていない。くしゃみが出ただけだ。
咲良は意味がわからず小首を傾げる。

「あれ、わからなかったかな。声、でていたよ。伊藤さんの声。初めて聞けた」

(出ていた? 声が?)

「びっくりしたかな。くしゃみは反射だから、こういう時に声が出るのは珍しくないんだ。でも、これで確信したよ。伊藤さんの喉は声を出す力をなくしてない」

恵の言葉に、咲良は恐る恐る喉を撫でた。

(声が、出ていた……)

ふと、こんなことが前にもなかったかと記憶を辿る。
凪と居た時だ。ふたりで桜を見たあの夜。くしゃみをした咲良を、彼は驚いた顔で見つめていた。
何をそんなに驚いているのだろうと思ったけれど、もしかしたら彼は咲良の声が出たことに驚いたのかもしれない。

言ってくれたらよかったのに。そう思いかけて、何に驚いたのかと訊かなかったのも悪かったと思い直す。
自分たちは、どうしようもなく言葉が足りなかったのかもしれない。
声はなくても、訊けるタイミングはたくさんあったはずだ。

「自分の声が出るって、信じられそう?」

不安を見透かしていたような恵の言葉に、咲良はこくりと頷いた。
 
いくつかの運動を繰り返した後、「じゃあ短冊を書いてもらおうかな」と作業机に連れて行かれた咲良は、山吹色の短冊を手にした。
黒いマジックで、一文字一文字綴る。

『自分の意志で声を出したいです』

反射なんかでなく、自分の言葉を、自分の意志で音にしたい。

咲良の手元を覗き込んだ恵は、「お、いいね」と頷く。

「願いじゃなくて決意表明か……。じゃあオレも、言語聴覚士 S T として全力で頑張るからね」

プロの顔で請け負った恵は、「でも、焦って宿題をやりすぎないように」と釘を刺すことも忘れなかった。

◇   ◇   ◇

吹き抜ける風に、先ほど美弥と一緒に作った色とりどりの七夕飾りが揺れる。
笹の葉擦れの音を聞きながら、咲良は黒板に視線を落とした。
七夕当日は、やはりイラストは関連したものがいいだろう。そう考えて、笹や短冊を描き出す。

メッセージを書きかけて、手が止まる。
織姫と彦星。両想いの彼らとは比べるべくもない。
けれど。
咲良は、語りかけるように、問いかけるように、それを綴った。

『あなたは誰に会いたいですか』
 
 
 
その翌日──七月七日、一ヶ月ぶりに凪が店を訪れた。

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