File.03 うさぎはひなではありません

友達になってください宣言以降、スマホのトークアプリに彼からのメッセージが届くようになった。ついでに言えばあの日以降バッテリーの消費も早くなった。原因はわかっている。彼がアドレスの登録と称して私のスマホを手にした時に、アプリを入れたせいだ。
 そのアプリを調べてみれば、先にモバイルパソコンに仕込まれたものとほぼ同じものだとわかった。盗聴と盗撮、それにこのスマホを使って何をしているかを覗き見たり、それに伴う遠隔操作が出来るようになっているものだった。パソコンと同様にダミーデータを読ませている隙にそれらを解析した後、特定のアプリを起動している間は私がゲームをしているように見せかけるべく手を加えた。このあたりの技術は、こちらの方が上のようで、気付かれている気配はない。お陰で玄関に新たに設置された盗撮機と室内の盗聴器の存在を専用の連絡アプリを介して知ることは出来た。
 川村さんたちは気付かなかったようだけれど、私の部屋はとっくに盗聴も盗撮もされていた。そっちは同意の上だったから盗撮というよりも監視だし、彼らに言わせれば防犯らしい。八畳の居間兼寝室と三畳ほどのキッチン。1Kの広いとも言えない室内で、脱衣所やお風呂、トイレ、それからベッドの上は死角になるように調整されていることを、一人暮らしを始める時に知らされた。
「念願の一人暮らしなんだ。これくらいは譲歩しろ」
「これくらいって……」
「プライバシーは守られてるだろ」
 カメラの存在を知らせてきた保護者の軽薄な笑みに、「これのどこが!」と噛みついたのを覚えているけれど、見られたくない時はベッドの上で過ごすか、のんびりお風呂にでも入ればいい。そういう安全地帯があることは、確かに私の精神衛生上よかったような気もする。それに何かが起きても誰かが助けにきてくれるという安心感があったのも確かだった。
 そんな状況だったから、年明けすぐにこの部屋に盗聴器が仕掛けられていたことも把握していた。元々電話で大事な話をすることもなかったし、特段害はないはずと言われていたからそのままにしていたけれど、川村さんがお店に来るようになったタイミング、そして仕込まれたスマホのアプリで点と線は繋がったも同然だった。
 ソフトにしろアプリにしろすぐに削除してしまいたかったけれど、それはしないようにと言われていたので、渋々そのままにしてある。それにしても、どうせ監視するならばもう少しバッテリーを食わないような工夫はして欲しいと開発者に文句のひとつも言ってやりたいところだ。

「誰か来る予定だったのかな?」
 ひな祭りの翌日の夜。いつもより軽めの夕食を終え、買ってきたケーキを食べようかと思っていた矢先、インターホンが鳴った。川村さんだ。
 バレンタイン以降も時折お店に現れては二言、三言交わすことはあったし、数日前にはふたりで二度目の食事に出掛けたから、彼の言う”友達”くらいにはなれているのかもしれない。
 こんな風に予告もなく訪ねてきたのは意外だったけれど、家まで送って貰った時に部屋の場所は話題に上っていたし、今日の昼間の出来事を思えば突然の来訪も不思議ではないのかもしれない。
 招き入れた部屋の中。テーブルの上に鎮座する二、三人分はありそうなホールケーキ。いちごのたくさん載ったショートケーキに目線を落として尋ねた彼に、ふるふると頭を振って否定する。
「別に誰も。子どもの頃、やってみたいって思ったことありませんか? ひとりでホールケーキを食べるとか、スイカ半分をスプーンですくっておなかいっぱい食べちゃうとか」
「ああ、なるほど。一種の大人買いってことかな」
「まあ……」
 答えかけた言葉の先を奪うように、電気ポットがカチリと音をたててお湯の沸騰を告げる。
「あ、お茶入れますね。適当に座ってください」
「いや、冷たい物が飲みたくて下の自販機で買って来たから僕はいいよ」
 手にしていたペットボトルのウーロン茶を軽く掲げて見せた彼に頷いて見せて、自分の分の紅茶を入れる。茶葉もあるけれど、今夜はティーバッグにしてしまおう。そんなことを思いながらマグカップを準備している背に声が掛かった。
「何も訊かないの? 昼間のあれは誰だ、とか」

 今日はバイトもなく、少しの遅寝を楽しんだ後に洗濯をして買い物に出掛けた。家に居たところで鬱々とした気持ちになりそうなのはわかっていたし、バレンタイン──彼の誕生日に食事をご馳走になるだけで終わったのがなんとなく申し訳なくて、それならばホワイトデーがてらの贈り物を買いたいと思ったからだ。
 GPS追跡をされているスマホは、敢えて部屋に忘れて出た。今日だけはそういう何かについて来て欲しくなかったから。けれど、それが裏目に出てしまい、デート中だか仕事中だかの川村さんと鉢合わせてしまった。
 ブティックが建ち並ぶ大通りの歩道で、寄り添い歩く男女。その男性が川村さんだと気付き、うっかり凝視して足を止めそうになった。
 隣を歩く女性は、オフホワイトのトップスにマーメイドラインのスカートが艶やかな腰のラインを象っていた。出るところは出て、くびれるべきはくびれる。世の女性が思い描く、理想体型。高いヒールで危なげなく歩く美女と、腰に手をまわして寄り添うスーツ姿の彼と。誰が見てもお似合いというやつだ。
 彼氏じゃないんだな、とか、お似合いデスネ、とか。いろんな言葉や感情が溢れかえったものの、私は前から歩いてきた彼らとそのままただすれ違った。一瞬目があったような気がしたけれど、ショーウィンドウの中を見るフリをしたまま歩調ひとつ乱さなかった自分には花丸をあげたい。
 部屋までやって来た彼は昼に見たスーツでなくカジュアルなスプリングニットに袖を通しているものの、こんな風に切り出してくるのだからやはりあれは川村さんで間違いなかったのだろう。それとも、あの場では”川村啓士”ではない誰かだったのか。
 『恋人を前提に友達になってください』とは言われたものの、まだ恋人ではない。だいたいそれすらも彼の業務か何かの一貫なのだろうから、本命の誰かがいるとか付き合っているとか、そういうことだってあるに決まっている。なのに、盗聴アプリに気付いた時やカメラを仕掛けられたと知らされた時と同じように、いちいち傷ついた気になる自分に呆れてしまう。
 思い出は思い出のまま、会うこともなければそのまま終われた筈なのに、近づくほどに心はぐるぐると振り回されて、好きという気持ちは厄介なことが多いみたいだ。
 あれは誰ですか、と訊く権利が自分にあるのかもわからない。だから私はマグカップのお湯を溢さないように注意しながら、彼の向かいに腰を下ろしてから口を開いた。
「訊かないのと言われても……何から訊けばいいんでしょう」
「昼間のあれは仕事だったんだ」
「はあ」
 なんとも答えようがなく、ティーバッグに視線を落とし、カップの中をゆらゆら泳がせる。
 あれが仕事だと言うのなら、そうですか、としか言えない気がした。警護やら何やら、よくわからない業務上のあれこれがあるのかもしれない。
「怒ってる、かな」
「え?」
 視線を上げると、神妙な顔がこちらを見ている。狼狽えるでなく、ただ私のリアクションを注意深く見定めているようにも見えた。
「そうですか、としか……」
「ん?」
「それが仕事なんだと言われたら、はあそうですかとしか言えないですし。そもそも私たち、別にそういう関係なわけじゃないですし」
「……君は、そういう関係じゃない男もこんな夜に部屋に上げるの?」
「は?」
「だとしたら警戒心がないにもほどがあるよ」
 いやいやいや。待って欲しい。訪ねてきたから部屋に上げたのに、なんで私は今責められているんだろう。
「追い返せばよかったですか? だいたい、だったら川村さんだって非常識じゃないですか。事前に連絡もなく訪ねてきて、こうして部屋に上がってるんですから」
 ひと息に言って、ケーキにぐさりとフォークを突き立てる。突き立ててから、ああ、ろうそくを立てるのを忘れたと思ったけれど、どうせ彼が居る前でそんなことも出来ないのだからもうこのまま食べるしかない。それに、切り分けて「どうぞ」と勧めたところでさして甘い物が好きでもない彼は「僕はいいよ」と言うに決まっている。
 少し大きなひと口をそのまま頬張ると、生クリームの甘さが舌に広がる。お高いかなと思ったけれど、今日のケーキは特別だからいいかと奮発して正解だ。値段なりに、ホイップとは違う濃厚な生クリームはささくれ立ちかけた気分をあっという間に塗り替えてしまう。
 おいしすぎる……。
 口の中のそれに心を奪われていると、向かいからは息を溢すような笑いが響く。見れば、先ほどまでの真摯さも不機嫌さもどこへやら、面白そうにこちらを眺める彼がいた。
「……ごめん。君の言う通りだ。部屋に上がり込んだ僕が言う台詞じゃなかった」
「いいです。心配してくれたんですよね。でも川村さんなら大丈夫って思っただけだし、そもそもここに訪ねてくる男の人なんてそんなに……」
 いないこともないけれど、彼は保護者だから川村さんが言うところでの男性には分類されないだろう。それに、夜に部屋に上げる男性として、彼ほど安全な人もいない気がする。なにしろ彼は私をそういう目では見ないのだから。
「そんなにってことは僕以外にもいるってこと?」
「親族とかそういう人もカウントします? 従兄みたいな……保護者というか」
「保護者って……ご両親でなく?」
 そんなことはもう調べてあるんじゃないだろうかと思いつつ、私は”瀬谷透子”の簡単な経歴を口にした。
「じゃあご両親が亡くなってからはその従兄くんと?」
「そうですね。ちーちゃ、……千彰さんが兄代わりにいろいろと気に掛けてくれたので」
 この部屋を借りた時の保証人も彼なのだから、ここは名前を出しても問題ないはずだ。
「ちーちゃんって呼んでるの?」
「はい……子どもみたいで恥ずかしいんですけど、もうクセになってしまって」
 そう呼ぶように言ったのはちーちゃんだけれど、もうそのまま習慣づいてしまったのは本当だ。嘘と本当がないまぜになった話をしていても、ケーキはやっぱりおいしかった。
「僕のことは?」
「川村さんのこと?」
「啓士さんって最初に呼んでくれたけど」
「あー、あれは、つい……」
「僕としてはそのくらい親密になりたいんだけどね。でも、こんなにあっさり部屋に入れて貰えるあたり、まずは友達以前に、男として見て貰う必要があるのかな」
 またその話に戻るのかと少しげんなりしつつ、話題を変えようと口の中の幸せを急いで飲み下す。
「そういえば、川村さん。今日のあれがお仕事というのは? 私、てっきりデート中なのかと思いました」
 お似合いでしたし、という言葉は飲み込んだ。そこまで言ってしまうのはなんだかみじめな気がしたからだ。
 鮮やかに染められた綺麗な爪。整った顔立ちにルージュが映えて、高いヒールにきゅっと細い足首。揺れていた金の鎖のアンクレット。それに引き替え、整えただけの爪に、外に出るのに問題がない程度の簡単なお化粧。スニーカーなんてヒールとは対極かもしれない。
 男の人が恋愛対象の彼だって、あんな女性になら少しは気持ちも揺らぐのかもしれない。そう思った。
「デート中、か。透子さんは、それで少しは妬いてくれたりしないの?」
「は?」
「いいや、うん、デート中に見えたなら上々かな。ストーカー対策でね。ちょっといろいろ……まあ詳しいことは言えないんだけど」
 手にしたまま止まったフォークをそっと奪われる。川村さんも食べるんだろうかと成り行きを見守ると、切り分けられたケーキは私の口へと運ばれた。
「ほら。口開けてくれないと」
 なんでこんな、あーん、なことをしてるんだろう。だからといって口元で小さく揺らされるフォークをそのままにしておくのもいたたまれない。おずおずと口を開くと、嬉しそうに口角を引き上げた彼は私の口にケーキを差し入れた。
 恥ずかしい。でもおいしい。
「ふっ、可愛い」
「──っ ぐっ……う……」
「ほら、紅茶。飲めるくらいには冷めてるんじゃないかな」
 うっかりティーバッグをそのままにしてしまった紅茶は、少しだけ渋かったけれど、この際そんなことは言っていられない。ゴクゴクと飲み下して、恨みがましく見上げてみても、機嫌よさげに瞳は弧を描いたままだ。
 もう。本当にまったくもう。可愛いとかそういうことをさらりと言うのはやめて頂きたい。
 内心の抗議など全く気付かぬ態で、彼はフォークを手にしたまま私の口に運ぶのを繰り返す。フォークを返して貰おうとしたけれど、「妙なことを言うようなんだけど」と彼の話が始まってしまい、そのタイミングを逃してしまったせいで、雛鳥のごとく口に運ばれるままにそれを頬張ることを繰り返した。
「外で見かけても、僕から声を掛けない限りは今日みたいに気付かないふりをして欲しいんだ。仕事中に見えなくても実際は業務中ということもあってね。契約内容によっては君まで危険に晒しかねない」
 どうしてこう私の周りに居る男は、外で会ったら他人のフリをしろという輩ばかりなんだろう。行方知らずと言っても過言ではない保護者然り、その関係者然り、川村さん然り。
 保護者についてはそう言われている理由は明白だけれど、川村さんの方は嘘だか本当だかもわからない。今日のあれだって、本当は彼女だったかもしれないし、結婚詐欺の相手かもしれない。それでも、危険に晒しかねないという言葉だけは信じていいように思えた。かつて見たあれが川村さんなのだとしたら、うっかりすれば爆発する建物の中を駆け抜ける羽目になるか、銃撃戦に巻き込まれかねないのは確かだから、それはもう全力で辞退したい。
「それから、忙しくなると昼夜関係なく電話に出られないし、メールもあまり出来ない。貰っても、返信がかなり遅くなることもあると思う」
「わかりました。今日みたいに知らんふりしますね。あと、メールも電話も別に気にしないでください」
 バニラの香りを満喫しながら頷くと、沈黙が落ちた。
「……」
「……何か変なこと言いましたか?」
 要望に応じますと答えたのに、なんで微妙に物言いたげな顔をされるんだろう。川村さんはまじまじとこちらを見つめた後、眉を下げて苦笑を浮かべた。
「まいったな。君は本当に僕に興味がないんだね」
「え? 今のってそういう流れでしたか? っていうか、川村さんは知らんぷりして欲しいんですよね?」
「いや……ああ、そう、いいんだ」
「いいんです、か?」
 会話が噛み合わないままに終わってしまいそうで念のためそっと尋ねると、「笑ってくれていいんだけど」と前置いて口を開く。
「告白した後の誘いにも応じて貰えたし、もしかしたら僕は少しは君の好みの男の範疇に入れているんじゃないかってね、期待してた」
 範疇に入っているかいないかならば、それはもちろん入っている。ただ、川村さんにとって私など最初から対象にはなり得ないと知っているだけだ。
 整った容姿というアドバンテージを持ち、よく知らないけれど仕事も出来そうだし、あんな高そうなお店にしれっと連れて行ってくれるあたりきっとお給料だっていっぱい稼いでいるに違いない。彼を好みではないと突っぱねる女性はあまりいないだろう。男性については彼をそういう対象としてどう評するのかはわからないけれど、食事に誘って応じた女に告白すれば、断られないのは確かな気がする。そして、そんな彼女たち、あるいは恋人に今のような話をすれば、彼の真意や愛情を試すように拗ねたり怒ったり、もしくはもっと怪訝そうなリアクションをされるのが普通だったのかもしれない。
 もっとも、私にとっての彼が特別なのは、そういうものとは全然別のことだ。覚えていない相手に言ったところで、そんなことで、と笑われてしまいそうなささやかな出来事。でも、誰かを好きになるのなんてきっと、そんなちょっとしたやりとりや、いつの間にか好きになっていたなんてことがほとんどなんじゃないだろうか。
「まさか男の数にすら入ってないとは思わなかったよ。これから地道に口説くからいいけど」
 全部嘘のくせにと思うのに、じっと見つめられればどうしたって顔は熱くなる。
 フォークを取り返そうとした手は掴まれて、そのまま握り混まれてしまう。自分よりも大きく節くれだった感触を意識して上がりきった熱は川村さんにだってバレバレだろう。
「離してくれないと、ケーキが食べられないです」
「まったくの脈なしでもない……くらいには思ってもいいかな?」
「川村さんって自意識過剰なんですね」
「はは、手厳しいな。でもそのくらいのほうが口説き甲斐があるよ」
 はい、どうぞ、と。フォークは返されることなく、再び口元にケーキが運ばれてきた。
「透子さんは休みの日は何をしてるの?」
「何って……普通ですよ。掃除したり洗濯したり。ご飯作ったり」
「遊びに行ったりは?」
「あんまり行かないです。家でのんびりするのが好きなので。川村さんは休みの日は遊びに行ったりするんですか?」
「そうだね。家でゆっくりすることも多いけど……なんとなく車を走らせたりすることもあるよ」
 何度か乗せて貰った車を思い描く。車なんて少しも興味はないけれど、外を歩いている時に同じような車を見つけるとつい目で追ってしまうようになった。
「ドライブですか。ひとりでも楽しめそうでいいですね」
「君と一緒だともっと楽しいと思うんだけど」
「……」
 ちょいちょいそういうのを挟み込んでくるのはやめていただきたい。と言ったところで表向き口説く宣言をしているくらいだから、これはもうスルーするしかなさそうだ。無言で、差し出されたフォークにぱくりと食らいつく。
「透子さんは、ひとりでいる方が好き?」
「……そうですね。どちらかといえば」
 本当はひとりが好きというわけでもないけれど、言っていいこと悪いことなどあれこれ考えないで済む分気楽なのは確かだった。実際ちーちゃんたちと出掛けるのは好きだ。最近は皆さんも随分と忙しそうだし、何かを頼まれるということも減っているからそんな機会がなかなかないのがちょっとだけ寂しいけれど、高校生の頃にはちーちゃんにお許しを貰って遊びに連れて行って貰うこともあった。振り返ってみれば、あれは身寄りから何から全部をなくしてしまった私を気遣ってのことだったのかもしれない。
「そっか。……ねえ。透子さんは甘い物好きだね」
 再びケーキを口に運んでくれながら、笑み含んだ声で尋ねる。
「そうですね」
 ぱくりとケーキを口にして、頷く。
 うっ、いちごの酸味とのバランス最高過ぎじゃない?
 このケーキ屋さんは初めて買ったお店だったけれど本当においしい。あんな細い路地の先にこんなお店があったなんて知らなかった。それとも最近出来たお店なんだろうか。
 こじんまりとした店頭のショーケースに並んでいた色とりどりの可愛らしいケーキ。特にいろんな種類のフルーツが載っていたタルトに心惹かれたけれど、今日はどうしてもホールのショートケーキがよかったからやめておいた。結果、生クリームの風味と甘さが絶妙に好みだし、スポンジのふんわり加減も最高。これはもうまた行くしかない。
「特にケーキが好き?」
「はい」
「僕のことも好き?」
「そ……」
 ケーキに心奪われたまま頷きそうになって、はたと口を噤む。
「川村さん。おいしいものをこういうことに利用しないでください」
 悪戯げに目を細めた川村さんは「残念。そうですねとはいかなかったか」とまったく残念そうではない口調だ。
「それにしてもホールケーキなんてまるでお祝いみたいだね」
「お祝いというか……」
「ん?」
「いえ。そうですね。ホールケーキなんて食べるの、普通なら誕生日やクリスマスくらいかも」
 家族でケーキを囲んで。誕生日なら、その主役の好物が並ぶ日。
 ちーちゃんと暮らすようになってからも、当日かそれに近い日付でお祝いしてくれた。「そういえば、透子さんの誕生日はいつ?」
「二月十四日です。……川村さんと一緒ですね」
「え、言ってくれたらよかったのに」
 少し驚いたように言うけれど、そんなの、この部屋を盗聴するよりももっと容易く調べられたはずだ。不毛だなと思いながら「タイミングもなくて」とえへへと笑って見せた。
「それに、あの日もこないだも結局私がご馳走になっちゃいましたし。祝って貰ったも同然じゃないですか」
「それでも、だよ。大切な相手の特別な日ならば、ちゃんとおめでとうが言いたいだろ。そのぶんいいことがある、だっけ?」
「ええ、まあ、そうですけど」
「誕生日おめでとう」
「ありがとう、ございます」
 ふいに泣きたくなる。もう誰にも祝って貰えない今日この日に、あなたにおめでとうと言って貰えた。それはなによりのプレゼントだ。
「嬉しいです。本当に」
「来年は当日にちゃんと言うよ」
「そう、ですね。楽しみにしています」
「どうかした?」
「いえ、このケーキ屋さんは大当たりだったなあって」
「今度ケーキビュッフェでも行ってみる?」
「川村さん、甘い物好きじゃないじゃないですか」
「そうだね。なら、……遊園地と水族館、どっちがいい?」
 彼は一口よりも少し大きめに切り分けたケーキを私の口に愉しげに押し込みながら、君の好きな方でいいよ、と。初めて食事に行った時同様、行くのだけは決定事項のように否やを言わせぬ笑みを浮かべた。

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